大阪連続児童殺傷事件の被告と正常・異常

 あの、大阪で起きた連続児童殺傷事件の、地裁での判決が出た。
判決は死刑だった。
死刑の是非という議論はさておき、色々と私見を書こうかと思う。


 まず、裁判ではどうしても被告の精神状態が争点となる。こういう異常性の高いものは特にね。
だから、弁護側も精神異常を軸に据えてなんとか減刑を図りたかったようだけど、それは退けられた様だ。
被告本人も幾度と無く、詐病を用いたりしていたのだが、それは心神耗弱状態だと罪が軽くなったり、或いは「それじゃしょうがない」という一種の同情を以て接される事を期待していたからだろう。
実際、逮捕後何度も行われたという鑑定で、幾つかの人格障害と診断されたようではあったし、マスコミもだからあんな事をしたんだ、という様な論調で語っている訳だが。


 まあ、素人の俺から見ても、あの被告は尋常成らざる程ルサンチマン*1が強くって、なんか被害妄想猛々しくって、その上自己中心主義甚だしいと、どうしようもない印象は抱いていた。


 だが、まず明瞭にしておかなければならないのは、彼は精神病の類ではない、という事だ。
そこを勘違いしたままにしておいては、今、様々な精神の病で苦しんでいる人に対して新たな偏見の芽を育て、そしてまた、病を患っている人自身も、ひょっとしたら自分もそんな事をしてしまうのか、という錯誤を与えてしまい兼ねない。
肝心なのは、重度、軽度の差は在るとしても、そもそも人格障害というのは誰にでも起こりうる事だという事だ。
幼少期から経てきた経験によってそうなって行く場合もあるし、事件、事故に巻き込まれた所為で唐突になってしまう事もまたあり得る。
人格障害だからああ言う事をするんだ」という偏見だけは持ってはならない。
それは、今そう言う障害に苦しんでいる人に失礼である以上に、おこがましいとすら言える考えであるだろう。
何故かと言えば、人格障害という事自体は誰にでも起こり得る事だからだ。人の事をとやかく言える義理じゃない、ってこと。


 にも関わらず、マスコミなどは必死に被告を病気にして、異常者としたいらしい。
と、言うのは恐らく、「あんな奴が『こちら側(健常者)』であって欲しく無い」という事に基づくものだと思う。
そして、「奴はあちら側だから」と安心し、珍しい動物を見る様な感じで、色々書いたり報道したりしてるんじゃないか。
確かに、俺も分かる。「あんな奴と一緒に見られたく等無い」って事、沢山あるから。
けれど、この事件の場合は、彼は憎むべき部外者として認識してはならず、俺達がそれぞれ持つ負の部分が肥大化してしまった同類、として認識すべきなのだ。
そして彼をこちら側だと認識した上で、どうすればああ言った類の人間を減らし、無くす事が出来るか、その為に社会はどうあるべきか、という事を問題として考えたり、動いたりしなくてはならない。
そもそも、明確な物差し無しに、正常だの異常だの論ずる事は出来ないし、してはならんだろう。


 俺は、被告を健常者、こちら側と書いた。多分、これを読んでいる人の中には異論がある人もいるだろう。
俺は別に人格障害など患っては居ない、とか、俺は異常者じゃないんだし、とかね。
けれど、それは本当に自信を持って言える事なのだろうか。自分を正常であると断言出来る程の理由はあるのだろうか。
誰でも、幾つかは心の中に疵を持っているものだと思う。
他の人から見ればそんなん、大した事でも無いのにという事を何時までも治らない傷の様にしてる人も居るだろうし、事件、事故に巻き込まれた所為で傷を負った人も居るだろう。
人格障害とは、大方はその心の傷から起因するもので、他に言いようが無いから敢えて名前を付けているだけの話。
先程もその程度による、と書いたけれども、誰しもその心の傷から受ける影響というのはあって、それが深刻な影響を及ぼすのか、そうではないかという違いでしか無い。


 そして、傷など負った事がない、なんて人が居たならば、俺はそっちのがよっぽど異常だと思う。
そう、正常と異常の境界なんてのは殆ど曖昧なモノでしかないし、もともと人は、その両面を持っていてもおかしくは無い。
敢えて言えば、その振幅の揺れ幅が大きいかどうかで判ずるしかない、としか言えないだろう。
心身どちらと限らず、傷、というのは治らないものもある。その事は悲しい哉、否定出来ない事実である。
けれど、癒して行き、小さく、目立たない様に処置して行く事は出来る。場合に拠っては勿論、完全に癒す事だって出来る。
その傷をどうやって癒して行くか、ケアをどうするのかと言う事、更に例えば自覚しているのだったら、如何にして気軽に傷を治せる様にするか、という事の方が、社会的に重要であるのと同時に有効であると思う。
今なお、メンタル系のクリニックとかには誤解や偏見もあるし、また、肝心の医師自体勘違いしてる事もある。
そう言った現状を如何にして取り払うか、という事の方が、被告を異常者扱いし、遠ざける事よりも遙かに建設的だ。


 また、それでも自分は人格障害ではない、という人でも、例えば職場や学校で、謂われのないいじめや暴力、悪口、陰口の類を叩かれた事は無いだろうか。
或いは、上司や先輩に立場が下だからという理由だけで難癖を付けられたりした事は無いだろうか。
この場合、相手が自己愛性人格障害である可能性がある。
これなら、誰にでも覚えが有るとは思う。その位、ありふれていると言えばありふれている事でしかない。
だからこそ、どうすればケア出来るのか、どうすれば改善させていく事が可能なのか、またどうすれば起こるのか、どうすれば防げるのかをを多くの人が知る必要があるのだが。


 俺個人として、被告の極刑に異論はない。
ただ、彼は死ぬ事を望んでいる様だから逆に、延々と生かせておく方が良いとは思うのだが。
有名な拷問、「穴掘って埋めて」をずっとさせておくとか。
山の頂きに大きな丸い石を乗せたら刑期軽減、或いは望み通り殺してやると言う条件提示して、山の頂に石が乗った瞬間に転げ落とす、って事してやったりとか。
あ、国際貢献隊という名目で延々と地雷撤去(当然首には逃亡防止の綱装備)ってのも良いねえ。
いずれにしても、身勝手で人殺しておいて、自分だけちゃっちゃと楽に成ろうなんてのは虫が好い話。
死んだら地獄行き確定、なんてわからない。だからその前に、現世で地獄を延々と味わう方が良い。
犯罪者に人権など二の次。否、勿論犯罪の背景にあるもの等は加味して考えられねばならないが。
ただ、犯罪者の人権よりもまず被害者の人権を守り、ケアする事の方が幾億倍も重要である事は、俺は曲げない。


 ま、まとめるとですな。
あの被告は俺達とは変わらん。勿論、考えてる事のレベルの差や、内容の違いとかはあるけれど。
その事をしっかり認め、そしてその上で、ならば俺達、或いは社会としてどう受け止めるか、どうケアするか、後の為に何を為すべきか、そう言う事を考え、そして実践して行かない事には、あの事件で失われた子供達から何も受け取らない、という事になる。
何だか、亡くなった人を利用する様な物言いでちょっと申し訳無いのだけど、それでも、こうして社会的に大きな関心を集めたからには、あの事件をどう捉え、そしてどう生かして行くかが大事だろう。
そうでなければ、被害者達は犬死にとなる。
単に、被告を異常扱いして、恰も珍獣を見る様な目つきで見るだけでは何も生みはしない。
その事を、俺達は認識するべきだし、マスコミは啓蒙するべきだ。
そして社会は、似た様な症状を持つ人に対する水際のケアや、今後の同様事件の被害防止などの為の制度、環境の整備を考えるべきであると思う。

*1:哲学者ニーチェの言い出した言葉で、弱者が強者に対して持つ怨恨や嫉妬のの情と訳される。ただ、この場合の弱者は「多様な現実をそのまま肯定できない者、差異をそのまま認めることのできない者」のこと。単なる社会的弱者とかでは断じて無い。