十年一日の如く/暴力と言葉

 友人から指摘された事だが。
去年も俺、負けた負けたと同じ事書いてる。
やはりどうにも勝てなくて、困窮に極まって。
何かしら、見えざる意志でも働いているのかしらん、と思う様な有様。


 俺は運命だの宿命だのはあまり考えた事が無い。
そんなものは、個人の意志や努力などを総て無に帰してしまう思考法だと思うからだ。
言い換えれば、単に責任逃れの言葉でしかない、と思う。
もし総てが運命付けられているのならば、極端な話、何もしなくても良い訳で。
何かしても結果同じなら、何もしないに越した事はない。
そして、その思考そのものが、あまりに虚無的で、あまりに退廃的である事は言わずもがな。


 なんだけど、こう重ね重ね、十年一日の如く同じような事があるとね。
なんだか虚無的にもなってしまうわ。


 そう言えば、昨日は9/11だった。
あれからもう2年も過ぎてしまった。
テロが起きて1年目はメディアでも、ネットでも、様々な言及が為されていたが、2年目になるとその数も激減している。
去る者、日々に疎しといった事だろうか。


 朝日の夕刊では、大江健三郎がテロについて言及していた。参考資料はここクリックで表示
曰く、要約すれば、暴力を止められるのは言葉である、と。
俺自身、それには異論はない。暴力は結局、単なる連鎖を引き起こすだけだからだ。
しかし、実際に、その言葉が果たして、何処まで届くかという事だ。
大江の言及は、結局一部の知識階級にしか届かないのでは無いだろうか。
(但し、一つだけ断言しておきたいのは、こう書いたからと言って俺自身が知識階級であるとは毛程も思わない。第一、知識階級で困窮に喘ぐスロッターなど聞いた事も無い。)


 恐らく、今日本国内でも大江の名前を知っている人は決して多数ではないだろうし、まして彼の著作を読んだ事があるかどうか、と篩(ふる)いに掛けて行くと、残るのは結局、一部の読書好きであったり、知識階級に位置するような人達になるだろう。
しかし、現実問題として、そういった暴力に荷担するのは市井の人々である。大江の名前すらも、否、本すら読まないような人達が構成するものだろう。
その構成員に届く様な言葉、そして届けるような姿勢で無ければ、効力を発揮し得ぬのではないだろうか。
勿論、大江の主張も頷けるし、言葉の持つ力というものを俺は信じている。
だが、それは一部の人のものであってはならず、先述した様により広い層へと染みこむようなもので無くてはならない。
しかし、何処かしら大江の言及は、一部の者の自己満足を果たさせる為のものでしか無い気がして成らない。


 そう、言葉の重要性とその力を知るべきなのは、知識階級層ではなく、一般の、それも反知識階級層である必要がある。
それこそ、本もまともに読んだ事が無い様な人間にこそ、その力を知らしめる必要がある。
だが、その為の効果的な方法が見あたらない。
だからこそ、こうして今も、世界の何処かで血を流し憎悪に狂う人間が居るのではないだろうか。


 暴力に対抗出来る唯一の力は思想と言葉である。
だが、どのようにして、どんな言葉で、如何に多くの人に言葉を伝えるか。
ともすれば、こういった事は「面倒」とか「難しい」とか、「真面目」だからと敬遠されかねない。
事実、TVなどでも人気があるのは頭を使わないで済む、お笑いやワイドショウの類だ。
そう言った番組を好む様な人達にどうやれば言葉を伝えられるか、そして言葉を新たに紡がせられるか。
大事なのはそこだと俺は思うのだが。


 あの日、そびえ立つ双つのビルが崩れ去る様を見、涙したり、憤慨したりした人は極めて多いだろう。
それこそ、その感情は全世界的なものであったと思う。貴賤、インテリ、非インテリ、そう言った差異は無い。
そして、その時に各自が抱いた感情を表に出し、伝えて行く事、様々な人の言葉を交わす事、それを継続させて行く事こそが、言葉の強さを知らしめ、鍛える方法では無かったのだろうか。
更には其処から生み出される想像力、他者への配慮、寛容が世界を変えうるものでは無かっただろうか。


 去年にも同じ事を書いたが、世界は変わってなどいない。
十年一日の如く、世界の何処かでは血生臭い戦闘が絶えず、あろうことかアメリカがその暴力に荷担している始末。
だが、大きくは変わらずとも、俺達一般の人間の、些細な意識すらも変える事は出来ないのだろうか。
それとも、そう思う事は期待し過ぎなのだろうか。