我慢と理性と最近のしょうもない犯罪

 なんだか最近、新聞やニュースを見ていると、しょーもない事件が多くなっている気がする。
例えば、良い年した学校の教師が生徒に対し「死ね」など言ってみたり、言う事聞かないと遺書に名前を連ねるなどと嘯いてみたり、20〜40代の者による連れ去り事件が多発していたり。
勿論、こういった事件というのは必ず、どんな時にも数%の枠内で起こり得るものであって、根絶など出来ようもないのではあるが、ここの所妙にその件数が増えているような気もする。


 犯罪というのはその背景に様々なものがあって、それこそ社会的環境や個人的背景など、なぜ犯罪者がその犯罪を犯すに至ったか、と言う事を軽視する事は出来ない。そうした背景を探り、役立てて行く事が犯罪の発生を未然に防ぐ手助けと成るはずだ。
社会福祉や教育の充実などは、その意味でも効果があると思って居た。


 所が、どうもここんとこの犯罪ってのは単に子供のやる様な犯罪ばっかな気がする。
自分の思うが侭にならないから犯罪を行う、我慢するの嫌いだから犯罪に走る、と言った様な。
そして、それはやっぱり理性の発達の問題じゃないか、と思うのだ。


 この事を考えていて当初は、倫理観(モラリスム)の欠如に問題がある、と言う極めて一般的な答えに行き着きそうだったのだが−勿論、それも大きな理由ではあるが−、では何故、モラリスムが欠如している人間が増えているか、と言う事を考え出した所、モラルというよりは理性の問題なんじゃ、と至った。


 ちょっと前に、ブルセラつって、小汚えパンツ売ったりして小銭稼いでいた女子高生の時代があった。
それは後に、援交と言い換えて軽く見せようとした売春に発展する訳なのだが、その行動原理は紛れもなく、「欲しいものがあって、我慢出来ない」からであった。
言う迄もなく、その彼女らの欲望に火を付けて焚き付けていたのは「大人」側であった訳だ。
これでもか、と目の前に欲望をちらつかせることで、際限なく消費する輪の中に組み入れた。
勿論、その輪の中に居ても、買わないでおこう、と思う意志、今は余裕無いし止めよう、とする理性自体は働くものだ。
しかし、それが出来ないかったからこそ、問題となっていた訳だ。


 それと同じような事が起こっている気がする。
それも、ケツの青い女子高生ではなく、いい歳した大人の中で。
普通、人間として成熟して行くに従って、自分を抑える理性も育ち、我慢する事を覚えて行くものだ。
大概は、それは思春期に於いて、自我の発展と共に大きな成長を遂げて行くものだと思う。
所が、最近ではそのバランスが崩れて、自我だけが大きくなるものの、理性はそれに伴わず幼少期の侭であるケースが増え、そしてそれに伴いしょうもない事が色々起きているのではないだろうか。


 ちょろっと考えて居て思ったのは、その原因となったのはやはり、バブル期ではないだろうか。
バブル期は、日本中金が余っていて、我慢しなくても良い時代であった。
総てがそう、ではないが、親は子供の望む侭に物を与えていたし、親自身もまた我慢などせず、消費する快楽に身を委ねていた。
一度、我慢しない事を覚えてしまうと、なかなか元に戻る事は難しい。
まして、幼少時、思春期の人格形成段階に於いてそうであったのなら、尚更では無いだろうか。
その結果が、今にあるのではないかと思う。


 金銭的な状況は当時と現在は違う。
だが、俺達を煽る欲望自体は前と同じどころか、一層の加速を以て進行している。
氾濫する情報や、この不景気に新規オープンして満員御礼となるようなブランドショップ、子供向けで在るにも関わらず、一着数万もするようなアパレルの人気、それらの存在がそれを如実に物語っている。


 俺達は消費社会の直中に居る。
消費する事で社会が円滑に動く以上、消費を止める事は最早出来ないだろう。
だが、やはりそれと、我慢する理性とは別個として在り続けなければならない。
矛盾する様だけれども、我慢する理性を俺達は持ち続けなければならないのだ。


 欲と言うのは、本能に近いものだと思う。だからこそ安易に流されて仕舞いやすい。
事実、俺も欲には弱いと思っているし、良い儲け話があるなら飛びつくだろうとも思う。
だが、その本能に抗う術を身に着ける事、身に着けさせる事、それを重視すべき所に今、居るんじゃないだろうか。


 旧約聖書の中に、ソドムとゴモラと言う街の話が出てくる。
欲望と退廃の街、と言われた所だが、神の怒りによって塩漬けとなった街(それが現在の死海)だ。
俺はクリスチャンじゃ無いし、預言もあまり興味がない。
だが、日本がソドムの様になるとは言わないまでも、このままじゃちょっとヤバいんじゃないか、と言う危惧感を抱く。
そして、その危惧感を拭う為には、何を為すべきなのか。
ミクロ、マクロ、双方の視点で考えて実行してみない事には、マジでヤバいんじゃないか。
少なくとも、目先だけの事でお茶を濁して居るような文部科学省日教組だけに任せて置けるような事でもない。
各個人、各家庭、各学校、それぞれが考えなければならない問題だと思う。