ことばの平易さと明快さ、明晰さ

 ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の書評として書かれた新聞の記事に、とても考えさせるものがあった。
「平易さ」と「明快さ」についてである。


 この、ヴィトゲンシュタインの本はそもそも、難解な事で知られていたのだったが、改めて訳し直すに当たって、如何に分かりやすく書くか、と言う事がテーマだったという。
その、「分かりやすいさ」について訳者は「人が分かりやすいと言う時、二つの意味がある。一つは平易さ、もう一つは明快さ。哲学はやはり難しいものであって、それを平易に説いて如何にも分かったような気にさせるやり方は賛成しない」と書いている。


 言う迄もなく、文章は平易で分かりやすいもので在る方が良い。
それは、独善から離れ、読んでもらう為に必要なサーヴィスですらある。
独りよがりの、自分にだけが分かるような難解な文章を誰が好んで読むだろう。
その事は、必ずしも難解な語句を使うからと言う訳ではない。簡単な、ありふれた語句ばかりを用いていても文章は読むに耐えられぬ物と成り果てる事は良くある。
人の事をあまり偉そうには言えん立場ではあるが、巷に溢れるWEB日記の類でそう言ったものが多いのは諸君の方がご存じだろう。
勿論、語句そのものも本来は平易であればそれに越した事はないのかも知れない。
だが、一方でその平易さはマニュアルのように画一化したような文章となる危険も孕んでいる。


 俺が気付かされたのは「簡単」「分かりやすい」と言う言葉に含まれる意味の違いである。
平易である事と、明快、明晰である事は違う。
この訳者である、東大助教授の野矢茂樹は「明晰であると言う事はお茶を濁さないと言う事。高級そうな言葉で誤魔化す事から最も遠い態度にある事」だと言っている。
明晰であるには、書く事に対して深い理解をしておかなければならない。誰に訊かれても、言葉を選びきちんと伝えられるようなスタンスに居なければならない。


 俺はこの日記と言うか随筆を「如何に分かりやすく文章に出来るか」と言う事を考えながら書いている。
ずっと前にも、何回か平易さとわかりやすさ、認知度などについてうだうだと考え、そして訳が分からなくなった旨を書いたと思うのだが、兎角、わかりやすさとは何か、受け入れられやすい文章とは何か、そんな事を気にしている。


 だが、改めて俺が思うのは、やはり簡単な言葉だけを連ねるよりは、上記の明晰さ、明快さをこそ目指すべきだと言う事だ。
難しいような言葉を多用していても、それが苦にならず、喉越しの良い上等の酒のようにするすると身体に染み込むような文章を俺は書きたいと思うし、書かなければならない。


 そして、この明快さ、明晰さは、本来物を書く人総てが心に留めて置くべき事なのだと思う。
そう易々と出来る事では無いと思うけれども、でも、書く者の矜持として、胸に留めておくべきものだと思う。


追記 この岩波文庫「論理哲学論考」
もう二万部突破だって。恥ずかしながら&口惜しい事に出てたの知らなかったよ。早速買って来なければ。
因みに、これは言語を主軸に据えた哲学。言葉とは何か、と言う事に興味があればオススメ。太字のクリックで詳細見られますよ。


併記 自分の為では無いのに何だか遮二無二忙しい。いや、時間自体は結構ある。が、まとまったフリーな時間が無いのでロクにスロも打てやしない。