佐世保女子ホームページ殺人事件とその問題点

 既にニュースとしてはかなり大きな扱いになってるだろう故に、ソースなどは割愛する。
さて、どうやらこの事件は友人同士でのクローズド・サイトの中での、チャットや掲示板の書き込みなどに端を発したものであるらしい。
そして、それを受けて様々なメディアではネット社会の危険性を取り上げて居たのだが、どうにも見ていて齟齬(そご)感を感じるのは、俺だけでは無いだろう。


 確かにこの数年で、インターネットは劇的に浸透し、小さな子供も専門的な知識を必要とせずにネットにアクセス出来るようになった。
情報というものは、数多ある中から真に有益であるものを選び抜く事にこそ意義があるのだが、その能力が充分に育って居ない者は、何の目的もなく情報の大海原に飛び込んでしまう危険も伴うものだろう。それは救命胴衣を付けず、また進むべき海図も持たずに船に乗る事に等しい。
尤もこれは年齢によって分けられるものではなく、経験と知識こそが要となるもので、中には、いい歳した大人でさえも溢れる情報に翻弄されている現実がある。
だから、子供のネットの作法や、情報化社会の危険を指摘するのは的を射ているようであって、若干筋が違うような気がするのだ。
一番解りやすく指摘するならば、ネットがある前からの、AVやエロ本、漫画などに見られる偏ったセックス感に惑わされた挙げ句、意思の疎通を伴わないセックスや、マニュアライズされたセックス、間違った性意識の蔓延と言う現象を挙げれば良いだろう。


 また、ネットでの作法、所謂ネチケットというものについても、現実の延長としてネチケットが存在する。
人に対し傷つけるような事を言わない、と言うのは最低限のマナーであり、配慮である。それを支えるのは想像力。
勿論、メディアなどで指摘されている、ネットでの匿名性という隠れ蓑があるからこそ、マナーは崩れて行くものだと言う点はあるだろう。
確かに、相手の表情が解らないからこそ、普段以上に攻撃的になったり、歯止めが利かなくなる人間は居る。それも決して少なくはない。
だが、それはネットじゃなくても同じなのではないか。攻撃対象となる本人に解らなければ、と影で悪口雑言を叩く事と本質的には何ら、変わらないのではないか。
だとすれば、ネットもリアルも関係なく、その本人のマナーや人格にこそ根本的な問題があるのではないか。


 無論、そんな事をした事ない、なんて人は至極少数だろう。
大体は、心の内で「畜生」とか思ったり、「あいつムカつく」と影で罵りあうものだ。
時に、それがバレて喧嘩になったりもする。
だが、そこで「殺そう」とまでは普通行かないだろう。「殺してやる」と思ったとて、本当に相手の生命を奪う事を目的とはすまい。
この事件の本質であり問題点は、ここにあると俺は思っている。


 普通は、気に食わない事をされたりしたのであれば、何故そんな事をされるのかと言う確認を経て、和解や逃避、或いは同程度の報復を考えるものだろう。
しかし、犯人は殺す事を選び実行した。
そこまで一気に加速させた物は何か。
この、佐世保での事件に限らず、最近のすぐに「キレる」人達にもそのまま当てはまる事だ。


 そう考えると、この事件は犯人の幼さこそ際立つけれども、何ら特異な事件でなく、実は最近の普遍的な病だという事が解る。
否、この犯人が「あまり我慢が出来ない=精神的に未熟な少女」だとすれば、寧ろ納得さえ出来る。
問題は、何故そんなに我慢の出来ない、短絡的で精神的に成長出来ないのか、何が精神の成長を阻むのかである。
また、もう一つは、配慮というものに欠かせない想像力、その欠如は如何にして起こるかである。


 犯人の女の子は読書好きであったという。
普通なら、読書を通じ想像力は育まれるものだ。だが、読書だけでは痛みは解り得ない。
現実に、己の肌を切れば血が出、痛む事を知らねばその痛みは計り得ない。
ちょっと切っただけでこれだけ痛いのだから、もっと切ればどれだけ痛いだろう。
同様に、自分が酷い事を言われた時これだけ厭な思いをしたのだから、もっと酷い事を言ったら相手はどれだけ厭だろう。
そこまで察して初めて想像力と言える。
普通の人ならば、それは無意識に想像、判断し、だからこそ相手を察し言葉を考えたりするものだが。
それだけの能力が無かったのならば、それはやはり想像力の欠如であり、犯人の女の子は幾ら読書好きとはいえ、真の意味で読書していたかどうかは疑わしく、その一方で現実感に乏しい感性だったのではないか。


 精神の成長と想像力は、先程では分けて書いたけれども密接に関係するものだと俺は思っている。
それらはいずれも、知る事から始まる。
我慢をする、と言う事にしても、自分のキャパシティを様々な経験を積む事で少しずつ広げ、「ここまでなら大丈夫」とする事であるし、想像力もそのベースとなる事象をストックしておき、そこから派生発展させて行くものだ。
経験の無いものに直面したときは誰だってすぐ弱音を吐きたがるものだし、全く見た事もないものを想像しろ、と言うのも難しい話だ。
俺達は色々な事を経験し、そして本で補う事で「知る」。
勿論前述したマナーや人格も然り。そもそも、人と接する事無しにマナーや人格が向上するなど考えられないのだ。
勉強する事だけが「知る」事では断じて無い。


 だが、ここ最近の「知らない」者達の増加は目に余りある。
それは過度な保護、躾、教育の所為でもあるだろう。
唯でさえ都市化、核家族化が進み、「生」「死」に触れる事が少なくなった。
更に、些細な怪我をも恐れ外では遊ばせず、幼い頃から塾通いさせたり、家では刃物にも触らせない過保護。
友達と些細な喧嘩をすれば親が出て来て慰謝料請求。
痛みを知る機会そのものが少なくなっている。
喧嘩をしても、殴られると、また殴るとどれだけ体や心が痛いか。
また、転んで怪我をしたとしても、転ぶとどれ位痛いのか、そしてどこまでなら我慢出来るかを知り、やがては自分の力で立ち上がる事を知る事はとても重要な事なのに、忌避している。


 そうしたものの積み重ねがこの事件を産んだ、とするならば。
やはり、この事件は特異なものではなく、今までの社会の歪みが現れたものだろう。
それも、大人のエゴが生み出した歪み。
ここにこそ焦点を当てなければこの事件の本質、問題点は語れないと、何故か強い自信を持って言える。