佐世保HP殺人事件報道とメディアリテラシー

 こんにちは。急に風邪がぶり返し、医者から室内謹慎を言い渡されたWacremaです。
先週の風邪が治ったと思ってたら急にまた熱とひどい咳のコンボ。
ほんと、諸君らも気を付けえよ。


 巷の週刊誌各紙では、件の長崎のHP殺人事件でもちきりのようだ。
どの雑誌もその残虐性と、ネット社会の危険、そして「バトルロワイヤル」に対する糾弾のようなもので構成されているようで、他社との差異を付けようとしているが実は皆、同じ穴の狢という構図に仕上がっている。
所詮、どの週刊誌も購読者層がオヤジなので、オヤジ向けの記事でしか無い訳だが、この硬直した思考には正直呆れる。


 2,3回前に俺が書いたコラムに於いて、この事件の問題点は別の所にあると指摘したのだが、結局どのマスコミもスケープゴートを仕立て上げて何かの所為にしようとしているように見えてならない。
例えば、あるテレビ番組では「これがチャットというものです」とPCでチャット画面を開き、「こんいちは」などと入力する度に「なるほど…」と頷き合って場違いな警戒感を強調してみたり、ある雑誌では加害者の姓がキリスト教に関係のある名字だと指摘し、隠れキリシタンとの関係を想像してみたり。
つうか隠れキリシタンだのどうでも良いじゃねえか、この薄ら莫迦


 メディア・リテラシーという言葉がある。
情報が流通する媒体=メディアを使いこなす能力の事で、メディアの特性や利用方法を認識、理解し、適切な方法で自分の考えを他者に伝達、或いは、流れる情報を取捨選択して活用する能力の事を示す。


 どうしても、ネットに潜む危険、情報化社会の問題点を語る上では、その数多行き交う情報を取捨選択するする能力の必要性=メディアリテラシーの事を論じなければ成らないのに、本来、その事を書くべき、或いは伝えるべきマスコミは無駄な情報の数々ばかりを語る有様。 
マスコミ主導のネット叩きや小説「バトルロワイヤル」糾弾、そして加害者や被害者への興味と露悪趣味が皮肉にも、メディアリテラシーの必要性をより強く示した事になる。


 確かに、バトルロワイヤルに対しては個人的に良くは思っていない。。
と言うのも、殺す事の是非を問うたり、心理的な葛藤の描写そのものよりも、如何にして殺すかと言う事に枚数が割かれていて、また、多くの人間達が恰も、人形の如く描かれていて、何だか生を感じさせない為だ。
だから、読後感は最悪の部類に入ったし、故に映画も見たいとは思わなかった。
ただ、個人的な嗜好と裏腹に、ああ言ったものが何故良くないのか、それを知る必要はある。
毒を服さずしてその毒を知る事は出来ない。
子供に害がある、と取り上げるのは簡単だが、何故良くないのか、それを明確に説明出来るようでなければならない。
俺がこの小説を子供に薦めない理由を挙げるなら、殺すシーン云々の問題ではなく、全体的に生命というものを軽視したつくりであるからだ。
けれど、読みたいと言うなら読ませ感想を聞くだろう。そしてその上で間違った価値観を抱こうとしているなら、それを是正する。
それこそが教育の勤めではないか。
そして、それこそがメディアリテラシーを教える基本ではないだろうか。


 以前にも書いたように、この事件の本質的な問題点は、加害者が読んだ本や、ネットの事ではない。
なぜ、そのような事をするに至ったのか、と言う点である。
もし仮に、ネットにその問題があると言うのであれば、ネットの何が問題なのかを掘り下げ、本が原因だというのであれば、更に深い因果関係を追求しなければならないのではないか。
そう言う所にこそ焦点を当てねばならないのに、単に何かの所為にして終わるのでは本質には至れない侭、その場を誤魔化して終わる。
それは何の解決にも至らないだろう。
また、無責任に何かを贖罪羊に仕立て上げ、そして喉元過ぎれば熱さを忘れるやり方を何時までもしているようでは、そもそも、子供に対し示しがつかない。


 これは何もこの佐世保の事件に限った事ではなく、世相を騒がせるような事が起きた場合総てに言える事だと思うけれど、もしまたそう言う事が起きた場合、どうすれば今後それが防げるか。
その答えを探さずして問題は解決しない。
例え、その答えが俄には為し得るような事で無いとしても、その方策を考え提示するだけでも話は変わるし、それを提示するのが本来のマスコミのあり方だと思うのだが、今の多くのマスコミはそれが出来ていない。
それは結局、求める人達が居ないから、と言う事になるのだろうか。


・追記
言い訳がましいけど、あまり纏まって無い上に読みづらくてごめん。思考エンジン低下中どす。