2004年を振り返りて

「ああ災いだ、災いだ。地に棲む者は災いだ」−ヨハネ黙示録第八章・七つの封印より。


 聖書のこの言葉を借りるまでも無く、今年を総括すると各メディアでも報じられている通り「災い」と言う言葉になるだろう。
イラクでは尚も混迷が続き、幾人かの日本人が拉致される中で、大凡一番似つかわしくない若者が殺された。
記録的な猛暑が続き、クソ暑いなと思っていたら台風がもっさり訪れ、中でも新潟や福井などに大きな被害を出し。
それが過ぎたかと思えば、大きな地震が起き、甚大な被害を与え。
景気は良くなるどころか相変わらずの不景気で、仕事が見つからん奴はとことん見つからず、仕事を持ってる人達の中でもサービス残業などの過剰労働を強いられ心や体を壊す人が続発し。
一方子供達の中でも穏やかな年であったとはお世辞にも言えず、各地で子供をターゲットにした卑怯にして愚劣な犯罪が多発している一方で、その子供達による犯罪もまた急増の傾向を見せた。


 ならば海外は、と言えば、冒頭でも書いた通り、大国のエゴによって一方的に始められたイラク戦争は、終局と平安を齎すかと思いきや一向にその治安の回復する様を見せない。
それを後押しするかのように、アメリカではテキサスの田舎者が再び大統領に就任し、ロシアやスペインなどではイスラム原理主義者やそれらと結託したテロリストによって無辜の市民が多数犠牲となった。
地上の楽園、などと言われていた東南アジアのリゾート地でさえも、ここ数日のニュースを賑わしているスマトラ島沖の地震と、それに伴う津波によって既に12万を超える死者を出し、最早数え切れない数の人々が受難の日々を送っている。


 こういった閉塞感が社会を席巻すれば、自ずと社会は停滞し人々は絶望に暮れるようになる。
東京学芸大学教授・山田昌弘が「希望格差社会」と指摘している通り、一億層中流階級という幻想は記憶の彼方へと去り、一部の富める者と、努力などした所で報われる事もないのだ、と何の希望も見出せず、唯、日々を費やす人達との格差は益々増えるばかりになるだろう。
それを象徴しているのが、フリーター、派遣、ニートと言う所謂「非正規雇用者」「非労働者」の急増とリストラと言う名の単なる首切りの増加、それに対して何ら保護救済をしようとしない行政、立法機関の現状。
また、そうした社会との断絶感から来る自己顕示や自己中心的性質の強い人間の増加、及び犯罪、自殺の増加。
つい先程、奈良で小学生を拐かし殺害した容疑で男が逮捕されたが、あれもまたこの時代の空気を如実に物語っていると思う。
あの犯人はいつの時代に生まれても犯罪を犯したのではないか、とは思うが、それでも携帯でこれ見よがしに写真を送ると言う辺りが極めて自己顕示的だし、先程述べた時代の空気の象徴たるものであるだろう。


 社会的な事ではなく、俺の極個人的な事で見ても。
今年は矢張り「災い」と纏める事が出来るだろう。
年間を通じスロを打っても勝つ事は出来ず、稼ぐどころか蓄えを無くし、またここ一ヶ月あまりはとても哀しくて辛い事が自身を苛んだ。
無論、辛い事、苦しい事、哀しい事と言ったネガティヴな物事ばかりではなく、一方で楽しい事や嬉しい事も多々ありはしたけれども、どうしても印象として残るのは前者の方が多い。
それは純粋に、頻度の差であるだろう。


 こういった状況を受け、来年は個人的にも社会的にも良い年であって欲しい、とは思うものの。
硬直しつつある社会構造の変革は恐らくは為されないだろうし、希望を持つものと持たざるものとの格差は益々進行し、それがまた更なる格差を助長させていくことだろう。
そう、言い換えれば更なる憂鬱な時代になるのではないか、と俺は思っている。
無論、「禍福は糾える縄の如し」という言葉も、その経験も在る事を知っているけれども、どうしても、ネガティヴな事を色々と思ってしまうのは詮方ない。


 ただ、それでも神様というものが居るのなら、俺と、俺の敬愛する人間達にどうか健やかなる日々を、何も不安を抱く事なく、畏れる事もない日々を来年は送らせて貰えまいか、と思う。
ああ、何なら俺が憎むような人々−例えば一方的に己の欲の為だけに他者を配慮する事なく蹂躙するような輩−はとっとと元素に返して宜しいですから。
いやマジで。来年こそ良い年でありますよう。禍福は糾える縄の如しでしょ。
してくれないなら自分でしますよ、ええ。