依頼:事務所を移転せよ

 夕方過ぎに、件の綱島にある口入れ屋から電話が掛かってきた。
「明後日、明明後日(しあさって)と、マツダのカールームで洗車のお仕事が有るんですが如何でしょう」
場所はどこか、と問うと、東京、神奈川のショールームになりますとの答え。俺の問いに全然答えてない。
むうと思いつつも、力仕事では無いし、寒さは厳しかろうが大変だと言う印象も無いので承諾し、「では予約しましたので、改めて明日、18時までに確認のお電話を下さい」とやりとりしてその日は終わった。


 明けて翌日、その仕事の詳細を聞くために確認の電話をしたところ。
「明日なんですが、みなとみらいで事務所移転のお仕事がありまして、それ如何ですか?」と。
…はい? 俺は昨日予約した洗車の仕事の確認に電話した筈なのだが。
そう問うと、「そのお仕事は埋まってしまって…」と、気まずそうな声が返ってくる。
あのなあ。予約の意味ねえだろう。呆れていると、「みなとみらいならお近くの様ですし、如何ですか」と勧めてくる。
事務所移転と言う言葉の響きに正直躊躇いはしたが、贅沢を言える身分でもない。渋々と承諾し詳細を訊く。


 あまりやりたくは無いな、と少しブルーになって暫く後、再びその会社から電話が掛かってきた。
何か聞き漏らしでもあったのかしらん、と電話にでると、先程掛けてきた人とは違う人が、「明日、カールームで洗車のお仕事があるんですが…」と。
それ、さっき無くなったって言ってなかったっけ? 因みに以前にも書いたが、そこの事務所は3人から4人程度の事務所で、広かったり、人が多くて連絡が行き届かないなどと言うものとは大凡逆に位置する。
何処でですか、と問うと、「あざみ野」と。そんなに遠くはないけれど、一度仕事を引き受けた手前、ホイホイ変えるのは好きではない。
いや、先程事務所移転の仕事をそちらから受けましたので、と答えると、「あ、やって頂けます!?」と妙に声が浮ついている。
なんでそんなにはしゃいでるんですか、と問うと、「いやあ、人が居なかったんですよ!」と。
仕舞った、敢えて虎穴に入ったかも知れん。しかも虎児は居なさそうな。
詳しい友人に話を聞くと、怪我する人が多いと言う。更にブルーになる。ただ、前以てこういう事を聞いておけばその分注意をすることは出来る。それ自体は大きな収穫。


 翌日が早いので睡眠導入剤を服用し、早めに床に着いたものの寝付けやしない。
3時間ほど寝て、早朝、みなとみらいへと足を運ぶ。
指定された地下鉄の出口には既に何人か集まって居り、「お早うございぁーす」と挨拶をすると、皆一瞬ぎょっとした顔で此方を向き、ぼそぼそと小さな声で挨拶をする。以前もそうだったけども、何だろう、これは。
社の方に到着した旨を連絡し、予定人数が集まり次第、改めて紹介先との合流ポイントに向かう。


 が。
示されたポイントはみなとみらいの地下駐車場と言うだけで、具体的な地点はない。だだっ広い、しかも構造が面倒になっている駐車場で合流と言われたとて、土台無理な話だ。
リーダー格の若者が社と連絡を取っているけれど、社の者も含め誰もこの辺りに詳しい感じではなく、ただ徒に時は流れる。
あまり差し出がましい事をするのは嫌いだが、事態が事態故に助け船を出すものの、社の指示が曖昧すぎて窮す。
結局、相手仕事先の人と幾度か連絡をし、搬入口Bと言う所まで行き、漸く合流を果たした。


 上着を脱ぎ、軍手を嵌め、今日の仕事の確認を訊く。
この上のフロアにある事務所を別のフロアに移転させる、と言うものだ。そのため、3人で一チーム作り、計4チームで活動する事となる。最初から仲良い者達はさっさとチームを編成したが、他は皆、初めて会うものばかり。単純に立っていた位置で適当に組み合わされる。俺の相棒はいずれも(失礼ながら)ひ弱そう。俺も同じようなものだから、バランスは取れているだろう。
早速、指示役の方についてエレベータに乗り込んだ。


 その事務所はクイーンズイーストのビル十何階にも渡ってフロアを借りている大きな会社。
どうやら石油を含めたエネルギー関連に携わる会社らしい。日本語、英語に混ざってアラビア語で書かれた書類やポスターも貼ってある。
その会社で、既に梱包された山ほどある段ボールや机、機器の類を移動させるのだ。
って、なんで俺だけ一人で仕事してるんでしょう。チームだから楽出来ると思ったのにな。
移動させるエレベータの都合などで仕事の手が少し空くとそれらのポスターを拙い知識で読んでいた所、恐らくそのフロアの責任者らしき壮年の男性が話しかけてきた。
偉い人らしく、話を聞いていても他の指示役の人などからは注意はされない。普段の業務内容などを訊き、興味深い話を聞いていたところで再び仕事が出来たので、失礼します、業務に戻りますと一例し、再度戻る。


 一人黙々と段ボールをエレベータまで運んでいれば、やがてお昼時。
埃っぽく、かつ暖房の効いた部屋だったのでやたら喉が渇いていた。500ml入りのドリンクを買って一気に飲み干したが、喉の渇きが収まらない。
更に甘いものがやたらと欲しかったので、カフェ・クロワッサンで大盛り珈琲とパン、それとお菓子を求め昼食とする。


 午後からはチームと合流して作業。
ここで俺は、思ったより自分が疲れて居ない事に気が付いていた。俺、ひ弱な筈なのに。地味な筋トレ(思いついた時にダンベル持って振り回す)のが功を奏していたのかしらん。
そしてその思いは、相棒と仕事し更に強まる。
相棒達が顔を真っ赤にして持っているものも、重いけれどそんなひいひい言う程でもないなと感じたり、相棒達の1.5倍くらいのスピードで動いてたり。
足はだるいけれど、懸念していた腕や腰はまだダメージが少ない。
あれ?俺、思ったより体力あるの?
おやつ時の煙草休憩の際も、相棒達が床に座り込んで居る最中、俺と言ったら他のチームでスロ話をしてるのを聞きつけ、「ちょっと混ぜてよ」とジュースと煙草持ちつ話に花を咲かせる始末。
結局疲れはしたけれど、仕事を終えてから予想していたよりも体力の消費は少なかった。おかしいな。


 殆どの人が給料を取りに会社に向かうので、俺も相伴する。
その中で、一人が度々「前に会ったこと有るよねえ?」と問うてくる。
俺は他人の顔を覚えないので、ひょっとしたらそうかもね、と答えたが、会う機会が無い。
俺はこういう類の仕事を始めまだ僅かだし、彼はスロ屋などに行く訳ではなし。
実は俺にはこういう事例は比較的多いので、あまり気にもしては居ないのだが、彼は気になる様子。
色々と話を聞いていると、どうやら彼は所謂良い大学を出て就職したものの、辞職し自主的に引きこもっていると言う。
ただ、それでは金が尽きるので時折こうした事をしていると言う事だ。
俺には他人の事をどうこう言えるものは無い。ただ、色々な人が、そして色々な状況があるものだと思っていた。


 俺は「就職するまでの弾稼ぎだよ」と言うと、「そうだよな、こんなん早くやめるべきだわ」と彼は答え、「うん、俺も就職しよう」、と続けた。
−お互い、上手く行くと良いな。
俺はそう答え、そして、彼にだけではなく俺自身にも向けて、頑張ろうなと言った。
そうだ、仕事の内容はともかくとして、この賃金体系と金のたまらなさっぷりの酷さ。(これはいずれきちんと書く。派遣やアルバイトに携わる人に読んで貰いたいと思う。)
まずは、早くそう言った所から抜け出したい。
ただ、一方で今日もまた色々な事を知った。俺は思っていたより体力が有る事。ステロタイプな人間が多い中で、様々な状況にある人もいる事。様々な仕事が有る事。
世界はまだまだ広く、それを知ることは、楽しい。


追記:翌日は案の定、腰が筋肉痛で布団から起きられませんですた。