困窮と言うものが生み出す喜劇

 良く、些細な金目当てに人が殺されたりする事件を聞いて、「なぜこんな端金の為に」と思う事があるだろう。
俺も、常々そう思って来た。数千円、数万円程度の金で失われる命の価値とは何ぞ、と。
しかし今、その奪う方の気持ちも分かる自分が居る。


 人は困窮すれば形振り構わなくなる。また、どうでもよくなる。総ては余裕の無さがさせる事だ。
普通なら考えもしないような事を、いとも容易く頭に浮かべ、そして行動しようとする。
それを止めるのは僅かに残った理性と、臆病心だけ。
僅かにでも蛮勇が勝れば、人はあっさりと堕落するだろう。
これこそが将に、貧すれば鈍する事。


 俺はやっぱり臆病者で。
絶望的な状況になっても己の手を汚す真似などは出来ず。
行くべき道も見出せない。
ならばここで俺の幕を降ろそうか、と思っても、臆病風がまた邪魔をする。
生くるに生けず、死するに死ねず。


 俺の原因だって、たかだか数万あれば事足りるようなものなのだ。
働いたけれど、給料は思っていたよりも遙かに安く、決して無駄遣いしてる訳じゃないのに、最低払わなければならないものにすら次第に回せなくなっているこの現実。しかも週払いだから尚更。
日々を潤わせる為に働く筈なのに、働く為に働く厭な螺旋。抜け出す為の金すら侭ならん。ラットレースとはこの事よ。
そこでちょいと欲を出し、暫く止めていたスロに手を出せば、ほらそこは絶望へ到る13階段。
おかしな事に、運命ってやつはこういう時に更に状況を悪化させるようだ。
尤も、ヴォルテールの「この世に運などない。全ては試練、刑罰、保証ないしは先見である」という言葉に倣えば、これは運などではなく、俺の愚かさに対する刑罰に他ならないのだろう。
そもそも、満足な種銭を持たずして投資(スロに限っては博打ではない。投資だ)をする事自体が愚かなのだ。


 俺は、先程も述べたが死を考えていた。
けれど、死んだ所で何の役にも立たん。それだけは言えるのだ。
ならば生きていくしかない。
なかなか思うようにならず、いや、それどころか寧ろ思うようになる事は希だというファックな日常だけれども、それでも生きていかねばなるまい。
暗闇の中仄かに見える、希望と言う漠然としたものを常に見据えながら。
その希望が無くなった時こそが、真の暗闇になるのだろう。少なくとも、その真の闇が訪れるまで。
既に光は弱いけれど、まだ一応は見えているのだし。


 ああ、それにしても。
金が無いって言うのは悲劇だ。
端から見ていれば喜劇以外の何物でもないのが、また皮肉だ。