事故の詳細

 その日は、関内、桜木町でラウンダーの仕事−要はチラシ配りなどの見張り役−が終わってから髪を切ろうと思っていた。
ただ、仕事が終わってから地元に戻り、美容院に行くとちょっと時間が足りないからそのまま仕事先で切ろうと、初めての美容院に入った。
そこは人件費節約の為か「シャンプーマシン」というモノが置かれていて、やはり手洗いには敵わないな、などと思いつつも腕の方は割と良く、失敗した、と思うような事もなかった。


 時間はすでに八時近く。昼を食べていなかったのでさすがに腹も減り、仕事が楽しかった事や髪を切ってもらった事による軽快感も相まってどこかで食べて帰ろうかしらん、などと思ったが、折から日本列島を包んでいる寒気の所為で腹立たしい寒さであったのと、食べて帰る事でまた小言を貰うのも嫌だな、とそのままバイクのキーを回して家路についた。


 飛ばすと余計に寒くなるので適度なスピードを維持し、普段より厚着しているとは言っても寒風は肌に痛い。
まして、関内からの距離、時間を走れば否が応でも体温が奪われていく。
磯子の駅を過ぎ、前も後ろも車が居ない事を確認し、「寒いから誰も外に出たがらないのかしら」と思った事を覚えている。
その先にゆるいカーブを経て橋にかかるところがある。(http://map.hatena.ne.jp/Wacrema/?x=139.61493372917175&y=35.39621308151818&z=1&type=map
そこの所を差し掛かった時、左手方向の小道から無灯火の原付が飛び出してきた。
ライトが見えればこちらも視野に入れ警戒したりする。それが車に乗ったりするものの体についた癖のようなものだ。
しかし、黒い原付で黒い服、更に無灯火であれば警戒しようがないし、視野にも入らない。
また、全くこちらを見ていなかったようで、普通このタイミングでは出ない、と言うタイミングで飛び出してきた。
結果、俺はブレーキをかける暇なく彼の後に追突、道に投げ出された。
数秒、道に伏せっていたが、本能的に体を起こし路肩まで行ったところで力尽き、ガードレールに凭れるように座り込んだ。
口に生暖かいものが溢れ、吐き出すと真っ赤な固まりと白いものが見えた。
…ああ、歯を折ったか。参るな。そう思って初めて、目だけを上げてかの当人の姿を探したが、すでに逃走した後だった。


 力が抜け顔を起こせないままだったが、やがて後ろから走ってきた車が異常に気がつき、警察と救急への手配を済ませてくれた。
身体の状態とは裏腹に非常に頭脳は明瞭としており、寒い訳でも無いのに体が震えているのは心因性のショックだろうな、とか、今現在で痛む所はどこだろう、骨は折れてはいないようだ、と感じ取ったり、更には被疑者不詳となると治療費から何から全部自腹だな、と、先日切り替えの為に保険をやめたばかりである事を思い出し、これから先起こるであろう出費を考えて途方に暮れもした。
やってはいけないタイミングで、やってはならない事をした。後悔の念がよぎり、己に対し無様だなと言葉が漏れた。
これはおそらく、俺に対する某かの罰なんだろうな。根拠は無いが漠然とそう思っていた。


 救急隊も警察も到着までどれくらい待ったか分からないが、野次馬の言葉からすると結構な時間待った事のだろう。
道に口から流れ落ちる血は尚止まらず、血だまりと言う程では無いにしても縁石を朱に染めている。
まず最初に救急車が到着し、俺を中に入れ応急処置をし事故状況や連絡先などを訊いた。
暫くして警察が現れ、おおよそ怪我人に対するような態度ではなく、ぶっきらぼうな態度で同じような事を訊き、僅か数分で実況見分を終わらせるとそそくさと戻っていった。
そして俺は、救急車でそのまま病院に運ばれたのだが、その病院は事故現場の道を渡り徒歩三〇秒ほどのところで、車だと大回りしなければならんので余計に遠いと言う、なんだか笑い話以外の何者でもないオチが待っていた。


 最初にレントゲンを撮り、待合室で口にティッシュを当て流れる血を止め待つ事三〇分。ようやく俺の診察の番が回ってきた。
若いパーマをかけた医者は傷口を見て開口一番、うわー、ぐちゃぐちゃだねー!こりゃ貫通してるわ!などと宣う。
医者にデリカシーを求めるのは間違いだと思っているが、それにしたって患者の心情位察しろとさすがに腹が立った。
こちとら傷口も見えないで、ショックの所為で勝手にガタガタ震えてる訳ですよ。そこでそんな言葉掛けられてみ、へこむよ。
横になるように言われ、訳も分からん侭に縫う事となった。
その最中もこの医者は看護婦と一々要らん事ばかりほざき、不安感ばかり煽る。
取りあえず縫って貰ってガーゼを当てられたが、今度はそれが邪魔で呼吸出来ない。もう少し考えてつけろ。
しょうがないので自分で少しずらすと「動かさないで」と。窒息死しろって事ですか、あ?
なんだか憤懣やるかたない思いで診療室を後にすると、丁度弟がやってきた所だった。
俺の現状を親に報告し、そして俺の仕事の案件のキャンセルを頼み病院を出ると、一度現場を確認したい思いに駆られたので付き合わせる。


 バイクはすでに歩道に乗せられており、何か手がかりなどは無いか、と思い目を懲らしても何も見あたらない。
俺が吐いた血はまだ洗浄もされず放置されており、その血だまりの中から歯の欠片だけ持って帰ろうと拾った所、血だと思っていたのは肉の欠片でもあった。
今、この時点でも俺は傷口を見ていないのだが、「貫通」という事はやはり、衝撃で歯が唇を貫通し穴が開いた事なんだろうな。
それを考えると、暗澹たる気持ちになった。


 現時点で、俺の怪我は前歯が一本折れ、また一本は罅が入っている為にささいな事で痛み、満足に食えない。
また唇から鼻下にかけては記述したとおり。
だが、骨折や靱帯損傷などは今のところ見あたらないし、何故か箸を持つと右手に痛みが走るものの、運動機能一般に関してほとんど影響は無い。
今は全身を筋肉痛が襲っているのだが、これはおそらく震えた所為と、事故の際に全身の筋肉が通常時より高い力を発揮し衝撃などに備えた所為でもあるのだろう。
明日、また病院に行って、更にその後警察や歯医者などに行かなければならないのが面倒と言えば面倒だ。


 俺を斯様な目に遭わせた犯人のウザガキが結局逃走した事は腹立たしいし、俺と同じ思いにさせたいのはやまやまではあるけれども、状況からすれば俺は後続車に撥ねられて死んでいてもおかしくはなかったし、骨折や靱帯の損傷、或いは障害が残るような事になっても決して不思議では無かった。
そうした意味からすれば、俺の悪運の強さ、或いは某かの加護に感謝するより他はない。
事故は予期できないからこそ事故なのであって、後からどうこう言ったところで詮方無き事。
ただ、それでも髪を切った後で何か食べていればこんな事にはなっていなかったかも知れない事を考えると、妙な後悔は未だ尚残る。
俺たち人間は、瞬間瞬間の些細かつ膨大な選択をしながら生きている。
その選択が一つ違えば、と言うある意味莫迦らしい事を、後悔と共に思うのだ。