憎悪と復讐の連鎖

 俺は何も悪い事をしていないのに、何処ぞの不躾なクソガキの所為で、どうやら、俺は皮膚移植をしないとならないようだ。
ただでさえ、仕事が出来ていない状態の上に治療費だの何だのと出費が嵩み、そこに来て更に皮膚移植なんて言う人をブルーにさせるには十分な言葉を頂戴しなければならないこの境遇に陥れたそのクソガキに対し、せめて口から手ぇ突っ込んでガタガタ言わせたらんと腑に落ちぬ。


 だが、こう考えた時に、丁度先頃見ていたNHKの特集番組「アウシュビッツ」の事を思い出した。
見た方も居られるだろうが、番組は如何にしてナチスユダヤ人を大量に殺して行ったかを追っていくものだったが、その中で、ユダヤ人が収容所から列車で移動させられる時に、偶々ドイツ人の犯罪者と一緒になったという収容されていた男の話があった。
極寒の、ぎゅうぎゅうに押し込まれた貨車の上で、そのユダヤ人の男はドイツ人の犯罪者から「煙草をやるから少し座らせてくれ」と取引を持ちかけられ応じた。
所が、そのドイツ人の男は、ユダヤ人の男が煙草を吸い終えてからも座り続けた。
ユダヤ人の男は、そのドイツ人の男の上に仲間と共に座り、気付けばドイツ人の男は死んでいたので貨車の上から捨てたと言う。
その行為に対し、レポーターが「同じ収容所に居た仲間でしょう。どうしてそんな事をするんですか」と問うと、「仲間?あれはドイツ人だったんですよ。同じユダヤの仲間であれば、そんな事はしなかった。でも、あいつはドイツ人だったんです。我々の兄弟を殺したドイツ人。何が悪いのですか?」と、笑いながら答えた。
俺は、その笑顔には未だに何の躊躇いも無い事を窺い知った。


 このユダヤ人は悪い。だが気持ちは非常によく分かる。何よりも悪いのはナチスなのだから。
そして、これに似たような事は今も尚世界中にありふれている。
一個人によるようなものだけではなく、国家という極めて組織的な意図によって、何の悪い事もしていないのに殺されたり、或いは非道い目に遭わされたりして憎悪を抱き、報復としてまた同じような事をする。
極めてありがちな言葉だけれども、憎悪と復讐の絶え無き連鎖。
初めお互い慈しみ合うような人間同士が、いとも簡単に人を殺せるようになる道標。
ナチスをはじめ、アフリカ諸国、東欧、中東、その様々な場所で繰り返されている。
例を挙げればきりがない。


 綺麗事を言えば、そんな事しても何にもならない。
唯、連綿と綴る憎悪に何の意味もない。
けれど、俺がいざ、俺を斯様な目に遭わせた当事者と鉢合わせしたら、やっぱり腹が立つと思う。
少なくとも安全靴で顔に蹴り入れる位はするだろう。えげつないと思われても、この程度ならまだ甘いとすら思う。
頭では、これも一つの「憎悪と復讐の連鎖」を生み出す事だとは分かっている。しかし感情は全く逆のベクトルを向く。


 もし本当に、俺の前に加害者が出た時は、俺はどうするんだろう。
すべき事は分かっている。「赦す事」。
だけど、俺が本当に赦す事が出来るかと言えば、満を持してYESと言えないもどかしさを感じる。
程度の問題ではないけれども、俺は別に殺されたとかって訳じゃない。
ただそれでもこの様に思うのだから、もっと辛い目に遭った人は、と思うと余計に。
俺は善人って訳では決して無いんだが、な。


追記:勿論、法的な責任などは当然請求するだろうし、寧ろしなければならない事だと言う事は付記しておく。
それは復讐心とかそう言う類のものではなく、法治国家に生きる者としての努めであるからだ。