死を視る事、生けるが如し

その日は、某大手新聞から世論調査の調査員が訪れる事となっていた。
だから、いつもならグースカ惰眠を貪る所をわざわざ朝早くから眠い目をこすりながらもスタンバイしようとしていた。


8時頃だったろうか、来客を知らせるチャイムが鳴った。
あまりに早くないか? と玄関を開けると、作業服を来た人達が立っていた。
そうだ、トイレの工事の詰めの作業がまだあって、今日来ると聞いていたんだった。
寒い中ご苦労様です、と彼らを通し、工事を始めている中、俺はまだ寝間着同然のスウェット姿で珈琲を啜りつつネットのニュースに目を通して、だらだらと朝のひとときを過ごしていた。
そもそも、この時にさっさと着替えていれば俺はあのような危機に遭わなかったのだろう…。


部屋でダラダラとしていると、急に腹部に雷鳴の如き轟きを感じた。しかし、震源地はまだ遠く、尻穴ダムも決壊とは無縁の堅牢さを誇っていたように思えた。
なんとなく着替えるのは面倒だし、工事はすぐ終わると言っていたし。
ほら、部屋の外から業者の人がすぐ終わる、とどこかに電話しているし。
依然として雷鳴の如きものは鳴り響いているけれど、津波の襲来までには工事も終わるだろうさ。
そんな楽観をまだ俺は抱いていたのだ。


往々にして事態と言うものは急変する。
唐突に、今まで遠かった震源地が近くなり、またダムも決壊の危険を帯び始めた。
ただ、工事を始めてから相応の時間が過ぎている。ドリルなどの音もしなくなった。
もう終わりだろ?
そう思ってトイレの様子を見ようと立ち上がろうとすると。
津波は想定していたより早く到達するようで、それを受けダムにも非常警報が走る。
ああ、これはまずいやも知れぬ。
なるべく衝撃を起こさぬようにそろそろとトイレの様子を伺うと、信じ難い光景がそこにはあった。
ちょ、便器ない!?
どうすんだ俺。


その瞬間、真っ先に思い浮かんだのはビニール袋だった。
しかしそれは流石に人として大事な何かをひとつ、捨てる事になる。
ああそうだ。自治会の事務所にトイレあるわ。
この際服がどうとか言っている暇は無い。ダムの決壊はもう目前。
慌てて、しかしそろそろと靴を履き、家から程近い自治会事務所を訪れるとカギが掛かっている。
…ヤバい。


次に近いトイレは…大手スーパーか。
着ているものは長袖のTシャツにスウェットと寒いはずなのに脂汗を滲ませ、走り出したい衝動を懸命に堪えつつ変な格好で歩く。
その間、万が一の事を考え常に人の死角となるような場所を目で探す。
ああ、たかが100メートル程度がこんなに遠いなんて。俺は今、どれほどの時間を掛けて居るんだろう。
少しでも気を紛らわせる為に別の事を考えようとしても、一秒が果てしなく長く感じられる。
一歩一歩歩く毎にダムに亀裂が走る。
臨界点が迫る。
今、ダムの維持に宛てている全神経の0.001%でも緊張を解いてしまったら、忽ち惨劇が起こる。
決して大袈裟な例えではなく、その時の俺には冥途が見えていたと思う。

目標のスーパーが視界に入ると、我が目を疑う光景がそこにはあった。
…まだ開店してない。
俺の命運ここに尽きるのか。


しかし、突然に俺はもっと近い場所にあるトイレを思い出した。商店街用のトイレで、そこは絶えず開いている上にきちんと掃除されている。
よし。と、俺はそこに続く階段を登ろうとした。
…一歩足を上げる毎に、今まで以上の衝撃がダムを襲う。
尻穴の筋肉が実際に痛い。
痛みに耐え、かつ神経を集中させたまま、歯を食いしばってラグランジュポイントを目指す。
階段を昇り終え目的地点はあと数メートル。
掃除のおばちゃんが掃除に入ろうとしている。おばちゃん、それダメ。俺先。最早言語すらおぼつかなくなってきた。
個室のドアを開け、スタンバイする。ここが最後の神経の集中しどころだ。油断してはならない。
…そうだ俺、あと数秒我慢だ。ファイト俺。がんばれ俺。


えと。
結果としては生還しました。未だ天命天理吾にあり。なんちて。
あと二秒遅ければ、俺ははビッグバンのような大津波に巻き込まれて居た事だろう。
全てが終わり、安堵しつつ喫った煙草は実に旨かった。
帰り際、自分の服が少し恥ずかしく、あまり見られないように小走りで帰ったのではあったが。