光市母子殺害事件の差し戻し判決に思う


光市で起きた母子殺人及び遺体陵辱事件に、高裁での差し戻し判決で死刑が下った。ソースは各社ニュースサイトとか参照。

 この事件は、犯行の残虐性もさながら、犯人の大凡被害者や家族、そして司法や社会そのものをナメた態度や弁護団の素っ頓狂な弁護ストーリーが物議を醸していた。
差し戻し裁判ではその辺りも言及され、「死刑を回避するには足りない」と弁護側の主張を退け、死刑の判決を下した。


 ややもすると感情的に死刑を叫ぶ「国民の意思」に後を押されたきらいはあるが、それ以上に弁護側の完全な作戦ミスである事は断言出来る。
弁護側は被告の無罪を信じ、社会正義を実現すると言うよりは「制度としての死刑に反対する」と言う政治的な目的が強く出ていたと思う。
その意味で、真に加害者の為に弁護すると言う目的からは乖離した。
また、その辺りに漂う胡散臭さのようなものを国民が感じ取り、あのような拒否反応を示したのではないか。


 その点、被害者の家族の本村氏は過酷な状況の中、極めて冷静に、論理的に立場を明確にしていたと思う。
彼が死刑についてどう思うか、と問われた際に「死刑がある事を前提にした上で、死刑になるような犯罪者を作らない社会を作る事が重要だ」と語っていた。
彼の主張を聞いて、俺は思わず膝を叩いた。
弁護側が気にしていたように、この裁判の争点は、死刑の有無と厳罰化の是非であった。
しかしそれはTo do or not to do.と言う二元論でしか無く、本村氏の主張はその二元論を超えた建設的主張であるのではないか、と俺は思う。


 死刑の賛否は常に、人の命を天秤にかけて論じられる。
無論、人の命は重い。咎人と言えどそれは変わらず、なればこそ、議論は常に賛否両論になる。
俺は現時点で死刑には賛同する立場なのだが、偶に、死刑と言うのは楽な刑罰なのではないか、と思う事もある。
死はその時点で総て無に帰す。快楽も苦痛もその総てが無になる。
仮に、犯罪者が己の状況を苦に思い、その解放を願っているとしたら、死刑はその解放を手助けする事になる。
殺傷に対する死、と言うとハムラビ法典のような報復法では相殺する事になるんだろうが、犯罪者が死を望んでいるとしたらそれは等価の報復法とはならないのではないか。
それに対し生きる事は苦痛を伴う。
例えばの話、死刑よりも上の刑罰として、アメリカなどのような懲役数百年、と言う、夢も希望もない刑罰の方が報復法として妥当なのではないだろうか。


 誤解されがちだが、刑罰と言うのは罪に対する報復としての罰と言う側面だけではない。
犯した罪に対する救済の側面もある。
それは則ち、罰を与える事で贖罪の意識を持たせ、罪悪感を昇華させるものでもある。
変な言い方かも知れないが、「罪を犯したから罰を受けているのだ」と安心させるのだ。もしこの側面がなければ、善悪の意識を持つ真っ当な人は罪の意識に潰される。そうさせない為の救済なのだ。
その救済は、罪のレベルに相応するもので無ければならない。罪が重ければその分、苦痛を味わう事が矛盾するようだが救済につながる事もあるのだ。
しかし、それこそ短期間で死刑が確定し執行されてしまえば、十分な救済を得ずして殺されてしまう事も有り得るだろう。


 光市の件に関して言えば、加害者にはまだ贖罪という意識自体の芽生えが薄い印象を得る。
その状態で死刑を確定させ、執行してしまうことは逆に、被害者への失礼となるのではないか。
本人が罪の意識とそれに対する贖いの意識を持ち、生きて行く事の痛苦を身に刻む事を経てこそ、初めて死に値するのではないだろうか。


 そして、その上で重要なのは本村氏の主張どおり、死罪というものが存在する前提で、これ以上死罪となるような人を作らないという社会作りをすることではないか。
厳罰化を背景にした犯罪抑止、その広報にしてもそのひとつだと思うし、社会科、或いは道徳のような教育活動、警察機構の強化、そういった犯罪防止策の拡充こそが要であり、その上で死刑が執り行われるべきであると思う。


 近年、こうした類の重犯罪は減少傾向にある。まあ少子高齢化に伴ってその実行者人口の絶対数が過去から見れば減少しているということもあるだろうし、貧困や差別といった社会的要因の減少、警察の操作能力の強化などもその理由の一つにあるだろう。
勿論、犯罪をゼロにすることは出来ない。
石川五右衛門が辞世の句で詠んだように。
けれど、一つでも減らすことが出来るのであればそれは大きな成果に繋がる。
ただ、死刑の是非を問うたり厳罰化を懸念するのではなく、その先にある大きな成果を期待し実現させること、それこそが我々の期待すべきことではないか、と俺は思うのだ。