白装束の人達とパチンコする人の相関関係

 今、一番ナウいカラーギャングとも云われている白装束の人たち。
もう散々マスコミに叩かれて居るので敢えて説明はしないが。
ちょっと前のバンド「筋肉少女帯」の歌の中で、「ちょっとキちゃった人」を示唆するのに「電波ぐるぐる」などと表記されていたが、あの集団は示唆そのままストレートなので不覚にも笑ってしまった事も。


 あの集団の最大のいじくりポイントは論理、或いは理論として成立してない事を正当化し、真顔で信じ込んでしまっている所だろう。
電磁波から生ずるスカラー波なる物質が悪影響を及ぼす、と説いているが実際にその物質は発見されておらず、また、電磁波が悪影響と云う割には携帯電話で話して居たりするという本末転倒振りもさりげなくアピール。
あの奇天烈な行動も苑ら、その疎か振り故にああもメディアに取り上げられるのではないか。


 だが、俺達は彼らの事を笑うけれど、その資格はあるのだろうか。
俺はよくパチンコ屋に行くのだが、そう言う所に来る人達は独自のオカルトを持っている事が多い。
年代的には中年以上の人によく見られるが、若い人にも多く見受けられる。
例えば、パチンコの液晶画面で「リーチ!」などと数字が揃い掛け期待感を煽るような所で、彼ら、彼女らは賢妹に手で液晶を扇いだり、指を押し付けたり、台の横にある鍵穴を抑えるなどの奇態を晒す。
そして、当たれば「こうしたから当たった」という理由付けを行うのだ。


 言う迄もなく、ああ言った類の結果は総て決定付けられている。
パチンコなら穴に玉が入った瞬間に、スロットならメダルを入れレバーを叩いた瞬間に乱数を取得し、その結果に応じて恰も惜しかったかのような演出を見せたり、或いは当たったりするだけだ。
従って、惜しいもへったくれも無いのである。結果は総て、to be or not to be、1か0しか無いのである。
しかし彼らは、「論理、或いは理論として成立していない事を正当化し、真顔で信じ込んで居る」のだ。


 こう云うと、さもパチンコ等をしたり、或いは変なオカルトに傾倒する人達を莫迦にしているかのように聞こえるだろうが、実際には、こういった事は普遍的に存在する。
例えば、「朝、右足から靴を履くと調子が良い気がする」、だとか、「デートで何某池のボートに乗ると別れる」だとか。
もっと端的な事で云えば年始にお参りをする際に、あの一瞬は皆本気ではないか、と言う事だ。
「あれとこれとは別ものだ」と言う人が居るかも知れない。
だが、構造は全く同じなのだ。論理、或いは理論に基づかないものを信奉し、実践していると言う点に於いては全く同じ。
その点で、誰があの白装束集団を悪く云う事が出来よう。
いい気になって誹る者は、単に自分を棚に上げているだけの事。事の大小の差はあれど。


 オカルトとは、信仰である。
そして信仰は、信じ込まなければ功を奏しない。自己催眠でもあるからだ。
故に、信心深ければ深い程、何らかの作用があるし、また自分に対し都合の良い事が起こったとしても、因果関係は無いにも関わらずその信仰の所為だと思いこむ。
そして、その信仰は主に不安や迷いから解放される事をきっかけに始まるものだ。
俺は、信仰そのものを否定はしない。
元々人なんてのは弱いものだし、そしてその弱い心を宗教にすがる事によって救われる人も居るだろう。
様々な方法が在る中で、彼らは宗教を選んだに過ぎない。宗教への逃避が悪であるとは断じきれない。
そもそも、逃避する事自体は何の悪でもないのだから。


 故に、俺はあの白装束の集団のことを、真に悪く言えるような人なんてのは、実は居ないんじゃないかと思う。
勿論、法に反するとか、そう言う事はきちんとしておかねば為らない事だが、それを言い出すとあのマスコミの車列であったり、右翼の街宣車などの方が余程、法に反しているとさえ俺には見える。


追記:まあでも、ああ言うエキセントリックなのは見てる分には面白いね。見てる分には。