些細な善行と裏にあるもの


 今日は風が強かった。
駅の前に並べてある自転車も、その強風に薙倒され、宛ら台風の後の如き様相を呈していた。
すっげえ風、と乱れる髪を手櫛で軽く整えながら歩いていると、その倒された自転車の中から自転車を取り出そうとしている二人の年輩の女性が居た。


 お手伝いしましょうか、と声を掛けると、お願い、引っかかってしまっているのよ、と現状を説明された。
軽く見てみたが、そのドミノの様に倒れている自転車が荷重となって引き抜けそうにない。今、倒れている自転車総てを起こさねば駄目だろう。その旨を説明し、まず、倒れている自転車を起こしてきますから、ちょっと待っててくださいと伝える。


 何台くらいあっただろうか。少なくとも2、30台はある自転車を起こし、そしてハンドルが絡まっているその婦人の自転車を引き抜く。
どうぞ、と自転車を渡すと、やっぱり若い男の子だねえ、ありがとう等と云われる。
いえいえ、と会釈をし、道を再び行く。


 俺はして当然のことをした迄で、別に感謝を求めてこんな事をした訳では無いが、やはり感謝されるというのは嬉しいものだ。
例えそれが本当に些細な事であったとしても。
善行、と言うには図々しいし、そして俺が感じた嬉しさというのは、やはり自己満足だろう。
だが、自己満足で悦に入るとしても、他人を傷つけたり迷惑を掛け自己満足に耽るよりは良いかな、などと自己弁護。


 善行とか功徳と言えば聞こえは良い。
俺がこういう事をした、と書く事によって、「あの人はいい人だ」等という勘違いもされるだろう。(また同時に偽善者だと鬱陶しく思う様な人も居るだろうが)
しかし、その善行の裏にあるのは殆どが些細な自己満足では無いだろうか。
自分は良い事をした、と認められたりする事で得られる愉悦では無いだろうか。


 肝心なのは、その自己満足を自分自身が認識しているかどうか、そしてその善行が押しつけがましいものでないかどうか、と言う事ではないかと思い至る。
良く、「〜をしてやったのに」と言う台詞がある。
自分が行った事に対する対価を無意識に求めている言葉だろう。
恐らく、俺もその婦人達が礼も言わずに去ったらそう口走っていたに違いない。
真に善人ならそう言った事は思いつきすらしないだろう。
その様な意味では俺も偽善者の範疇を逸しない。


 殆どの人が、善行に対して何らかの対価を暗に求める。己が満足のために。
けれど、俺はそれは悪い事では無いんじゃないかな、とも思う。
そう言った契機無くしては、人が善行をする事すら無いんじゃないかなとすら思う。
だが同時に、忘れてはならないのは「善行は自分の満足の為に行った事」で、対価が得られないからと言って怒ったり、或いは要求したりするのはお門違いと云う事だ。
そこを勘違いするから善意の押しつけをしたり、「してやったのに」等という台詞が出る。


 悪事を働き鼻高々な者は見ていて反吐が出るが、同時に善意を押しつけて良い事をした気分になってる奴もなんだか癪に障る。
それはひょっとしたら近親憎悪なのかも知れないけれど、そうは為りたくない。
俺が、そして諸君らの多くが行う善意の真意は、自己満足である。
それを踏まえ、誰かの為ではなく他ならぬ自分自身の為に善意を働く。
自分自身の為だと分かってるから、裏切られても変に落胆したりはしない。
そう思う事はひょっとしたら善い事なんじゃないかな、と思った。


 情けは人の為ならず、と言う言葉がある。
もしかしたら、この言葉はそう言う事を指していたのかも知れないな。
まあ、多分違うだろうけども。