SMと酒鬼薔薇少年−雑考

 電車の中吊り広告に、所謂おやじ向けの雑誌(週刊文春)の広告がつり下がっていて、それを何気なく見ていたら「酒鬼薔薇少年は性的サディズムを克服したか」と銘打たれた記事があった。
まあ、「袋とじヌード傾向と対策」なんて事を書いてある雑誌の戯言を本気で捉えるのもどうかとは思うが、ちょっと気になったので考えた事を徒然と記す。



 あの、神戸連続児童殺傷事件は、犯行の残忍さや犯人が14歳であったというセンセーショナルさ故に全国を巻き込み、そして少年法改正の一因ともなった事件だった。
しかし重要なのは、衝撃的だから、等と言う事で変に特別視をする事はあってはならないと言う点だ。
現実には被害者が生きながらにして地獄を見ているような事件の類も多いし、そして皮肉にも、そう云うのはなかなか世間から見向きされなかったりもする。
勿論、莫迦なマスコミが嗅ぎ廻る事で被害者の意識を逆撫でするような事も多いから、見向きされる事が良い事か、とも云い難いのだが。



 いきなり本筋からずれてしまったが。
要点となる「性的サディズム」という問題に対し、俺の思う所を書く。
まず、「性的サディズムは克服されたか」という表現自体が語弊がある。
サディズム(以下S)とかマゾヒズム(以下M)なんてのは、個人の性格と密接に関わるものだ。
どんな人にも能動性と受動性、積極性と消極性、攻撃性と非攻撃性−優しさ、と言い換えても良いかも知れない−というものが備わっている。
それが性的な事に絡むと、SだのMだのと言う話になるのだが、そもそもは積極性や攻撃性がSに関連したものであり、受動性などがMに関連したものだと思う。
そして、それらは密に絡んだ蔦の如く、各個人の内面に存在している。



 ある局面では攻撃的になるが、ある局面では消極的になる、なんて事は誰でも記憶にあるだろう。それは先述した通りSとMは密に絡む物であるが故。
性的な物を含めた、あらゆる局面に於いてそのSとMの属性は時に強く、時に弱くなりはすれど、数万人に一人という視床下部に異常のある人間以外、攻撃性や非攻撃性だけが特別に強い人間というのは存在しない。
それらはまた、年齢や環境などにも影響されるもので、嘗てはナイフみたいに尖っては触るもの皆傷付けたとか、校舎の窓ガラス壊して廻ったとか云う人間がすっかり丸く、穏やかな人間になるのも不思議な事ではない。
若い頃の攻撃性が次第に変化した事の表れである。それを克服と云うだろうか。



 サディズム、と言う言葉の源はフランスの作家マルキ・ド・サドの名前に由来する。彼がバスチーユの牢獄の中で書いた作品の中で、性的願望の為に女をひどい目に遭わす事から来ているのだが、現代では広範な嗜虐的性癖のことを示す様だ。
だが、その嗜虐性もコンプレックスやルサンチマンから来るものであったり、支配欲の表れであったり、或いはマゾヒスティックな願望の裏返しとして存在する事もある。それらは、環境が変わればいとも簡単に変化を見せる事も多い。
また、性行動には当たり前だがどうしても、積極性、攻撃性を伴う。
上述した通り、それらとSとは密接な関係があり切り離す事は出来ない。
更には、Mの性的願望−例えば言葉で責めて欲しいとか、スパンキングして欲しいと言う願望を持っているとしても、その「して欲しい」という願望自体は積極性と、それから自分自身への攻撃性いうS的なものの現れであると言う複雑さを内包しているのだ。
故に、軽々に克服と言う言葉では断じ得ない物がある。



 その記事を読んだ所、少年Aの嘗ての攻撃性は薄くなり、それに伴い標準的な性中枢の発達が見られる、と書いてあった。
記事中に於いて、「攻撃性と性衝動とが再び結びつく事はないのか」と疑問を呈していたが、そもそも結びついているものであるのだし、また、強い攻撃性と性衝動が突然結びつく可能性は否定出来ない。
だが、それは少年Aだけに限った話ではなく、俺達総てに言える事でもあるのだ。
何らかのきっかけで、性衝動と攻撃性が結びつけられ、暴力等が快感であると関連付けられる可能性はどんな人間にもあり得るのだ。
事実、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)や婦女暴行などが起こる理由の一つはここにある。
少年Aをやり玉に挙げるのであれば、同様にしてDVを起こす者や暴行魔なども断罪するべきである。
犯行の社会的衝撃度というレベルでの差異はあるが、被害者はそれぞれが、辛い思いをしている事には変わりはない筈なのに。
その辺りに妙な貴賤の様な物を作り出す辺りも、俺は正直気に入らない。



 あの神戸(略)事件では、犯人の少年Aの攻撃性の著しい突出こそが起因となっていた。
何か重箱の隅を突くようだけれども、「攻撃性は沈静化したのか」と書けば分かりやすいのに、変に「サディズム」とか書くからこう噛み付かれる訳で。
更に云えば、語義や意味をこういう感じでどんどん変えられてしまうのも俺は好きではない。
雑誌の記事は、粗はあるけど普通に良く書けて居ただけあって、こういう所で損をするのも勿体ない話だ。
まあ、逆に言えばそう云う需要に従って書いた迄なんだろうな。



 ってなんか中途半端な所で申し訳無いんですが、出掛ける時間になってしまった。すんまそん。
あー、なんかすっごい消化不良な感じ。読んで呉れた方々、本当申し訳ない。