長崎幼児殺害事件・雑想

 長崎で起こった幼児殺害事件について、政治家が不用意な発言をして叩かれていたり、少年法の事が問題に上げられていたりと、未だ騒然としている感は拭えない。
また、古典的なステロタイプの「ゲームのせい」とするような論調が堂々とまかり通っていると言う面もある。


 確かにこの事件は悲しいものであったし、12歳という少年のしでかした事に対する衝撃のようなもので社会は揺れているのだけれども、なんだかその衝撃にばかり目が行っていて、本質的な所が全然議論されてないような印象もある。
小さな子供が殺されてしまったという事実ではなく、少年が殺してしまったと言う事実にばかり目が向いている。
恐らく、この事件が普通の大人の男がしたものだったならば、ここまで大きな話にはならなかったんじゃないかな、と思う。
小さな子供が殺されてしまった、と言う結果は変わらずとも、行った者の年齢によって過剰に反応したりするのはやっぱり何処か違うと思う。


 そもそも、まず少年法の議論についてだが。
以前の少年法の成立自体は、少年の保護が目的であった。戦後の貧困や混乱の中で泥棒などをして捕まった子供達を如何にして国が保護し、しつけをし、社会に返すかが目的だったのである。
所が、現代ではそのような貧困も混乱も無くなり、同時に目的も曖昧になる。そこで、酒鬼薔薇事件が起き、改正少年法がスタートするのである。
以前の少年法とは違い、改正少年法はどちらかと言えば法的抑止力や厳罰化を目的としたものであった。
だが、酒鬼薔薇が14歳だったから方も14歳まで引き下げたというような一面はある。いっそのこと、中学校に入学する13歳からにするべきだっただろう。
小学校と中学校との垣根は大きく、また、鉄道などでは13歳からは大人扱いである。
「もう子供ではない」と自覚するのが大体、その辺りなのではないだろうか。
感情的に徒に厳罰化を求めたり、年齢を引き下げるのではなく、確固とした理由を以て行われるべきである。
まあ、俺のこの理由が確固としたものであるか、と言うと自信が無くなるのだけれども。
ただ、その上で刑法議論ど同時に少年法議論をする必要性はある。


 更に、某政治家も引き合いに出した親の責任について。
言う迄もなく、未成年の子供に対しては親の監督責任というものが存在する。
良く、パチンコ屋の駐車場に車を止めておいて、その中に子供を置きっぱなしにしている莫迦な親が捕まったりするが、それも同様の理由に於いてだ。
しかし、総て親の責任、と言うのも無理がある。
それは単なる責任転嫁を増長させる事になる。
まず最初には、それぞれの個人の責任が問われて然るべきである。
親、社会、環境、様々な要因や責任が取り沙汰されるけれども、まず一番には個人の責任を考えなければならない。
そして、在る程度分別が付くような年齢、10歳あたりになった頃から徐々に、自分の行動は自分が責任を持つのだと言う事を教えてやらねばならない。
それが親と、社会がまずするべき事である。
まだ幼い故に判断が出来にくい、とか、そういった場合は親の責任は問われるべきだが、そうではないような状況に於いても親や学校や社会の責任を問うと言うのは、俺は違うと思う。
それらの責任を考え、問い、対処や改善をする事を止めてしまってはならないけれども、物事には順番があるだろう。


 そして一番俺が疑問を抱いている、何故子供だからと言う事で大騒ぎになるのか、と言う事。
上述したとおり、まず責任は各個人に帰されなくてはならない。それは大人、子供関係はない。その上で親や学校の責任がどうこう言われるべきだ。
法によって裁かれるような事をしたのであれば、やはり大人、子供関係なく同様に騒がれるべきで、殊更に子供を特別扱いするべきではないだろう。
大人も、子供も、特別扱いせず、平等に人間として見てやる事こそが人権というものではないか。
そして悪い事をしたのであれば、やはり特別扱いしない事が平等ではないか。
イギリスでは子供が子供を殺した際に、名前や顔が報道された。それ自体は自分自身の「殺人」という行動の結果にしか過ぎないだろう。そう言う事を自覚させるのが、大事な事ではないだろうか。
俺は何も、子供に厳しくせよと言っているのではない。寧ろ、子供に厳しくあたるのであれば大人にも厳しくあたれ、と言いたいのだ。
何処かで陰惨な事件が起きても、メディアの報道は大抵素っ気ないようなものだし、場合によっては名前さえ伏せられている場合もある。
それが人権を配慮してと言うのなら、被害者の人権はどうなるというのだろう。


 ちょっとミスリードっぽくなってしまっているのだけど、人権についてもう少し。
人権とは誰しもが持っている、人としての権利という事だ。俺が主張している「平等にみる」と言う事もその重要な前提の一つ。
人である以上、差別したり特別扱いしない、と言うのが最も大事な点。
今も尚、謂われ無き差別に苦しんでいる方々も多いだろう。また、子供や老人、或いは障害を持って居られる方も居るだろう。
そう言った人々を変に白眼視したり差別したりせず、そして、フォローが必要な「弱者」である場合には背中から後押ししてやる事。
そうして弱者を守るのが強者の役目であるし、強者と弱者の隔たりを埋める事こそが平等へ至る道。それが人権を守ると言う事だと思う。
だが、それが拡大解釈されてしまい、人間は総て平等という言葉の元に均一化が行われてしまっていると言う事実もある。
人間はそもそも、年齢差があるし、男女で性差が存在し、能力に違いがあるし、様々な差異がある。
それらの差異を認めるのではなく消去するようにして均一化をするのは決して平等ではない。
各個人の差異を認め、互いの存在を尊重し、特別扱いしない事こそが平等という事ではないか。
そして、加害者の人権云々、と言うのであれば被害者の人権もまた守られるべきであるし、被害者の人権が守られないようならば加害者の人権も守られるべきではない。
例え被害者の方が亡くなられて居ようとも、やはりその人権は守られているべき。
まして、被害者は弱者の立場に居るはず。にも関わらず加害者の人権ばかりが尊重されるのはどうにかしている。


 各個人の差異を認め合い、互いを尊重し、そしてそれぞれの責任はそれぞれに帰結する。
これこそがまず一番始めに大事なことなんじゃあないかしらん。
法律云々という事よりも、もっと根本にあるべき事。
そして少年法に関してもっと厳罰化などを求めるのならば、同時に刑法の厳罰化を求めねばならない。
こうした事への視点が、どのメディアからも、どの議論からも欠けているような気がしてならない。