パチスロを打つ事が怖い

 俺は、怖いのです。
パチスロを打つ事が。否、正確には負ける事が怖いのです。
過去、幾度と無く勝ち、そして幾度と無く負け、その差し引きに於いてそれでも、何とかプラス領域に存在していて、だからこそ今までやっては来れたのだけれど、そろそろ矢尽き刀折れ、そう言った状況に差し掛かる。


 両替した千円をメダルに交換するために、コインサンドという機械に入れる。
出てきたメダルを何枚かずつ持ち、台に投入する。
−負けるのが怖い。幾らまで飲まれるのか分からない。心臓が早鐘を打つ。胸が痛む。
予告音が鳴ったり、演出が起こる度に(大当たりが)入って居て呉れ、と天に祈るが如き気持ちを抱く。
全く、覚え立ての素人ではあるまいし、と己を冷笑し、こんな気持ちで打っていては負けるだろう、と、千円分を投入した所で止める。
すぐ後に座った男が、数分もしない内に大当たりを引いていた。
口惜しさや、物悲しさや、様々なものが去来して、見るに見かねて店を逃げるように後にした。


 余裕という物は、常に何らかの根拠に拠って支えられている。
その根拠に(ひび)が入り、余裕が無くなると焦燥し、自信を喪失し、冷静で客観的な判断も下す事が出来にくくなる。
結果、更に余裕が無くなる悪循環。そう言った悪循環に、俺は両足浸かりつつ在る。
だから、カマを掘られる等という醜態を晒すのだ。


 考えてみれば、俺は仕事探しの合間の小銭稼ぎとして、パチスロを打っていた。
それが今はどうだ。主客逆転しているではないか。


 俺は事に於いて後悔はせず、と言う事を旨とし、今まで生きてきた。
だから、今も、自分が選択し決定してきた事に関して微塵も後悔はしていない。
後悔なんぞ、後から幾らでも、誰にだって出来る。
そうではなくて、肝心なのは後悔しないように進んでいく事。


 だが、俺が今後も後悔しないようにするにはどうするべきなのだろうか。
そろそろ、足を洗う潮時なのかしらん。
でも、それならば、俺は何を、如何にして為すべきか。
こんな事を考えていたら、二つの言葉を思い出した。
一つは、三島由紀夫の「〜したいという心は棄てる。代わりに〜すべきだ、とする。ああ、本当にそうすべきだ!」という言葉。
そして、もう一つは、ブルース・リーの「頭で考えるな、肌で掴め」という言葉。
実際に、それがどうして出てきたのかは分からない。
だけど、それら二つの言葉が、抜けない(とげ)の様にして、心の中に残った。


 今日は秋にしては暑く、汗ばむ様な天気。
それでも、夕暮れの陽は秋そのものであり、そよぐ風は多分の涼しさと、金木犀の香りを乗せていた。