怖れと勇気、希望
過日、記した怖れについて考えていた。
俺の場合の怖れとは、反復学習の結果、また負けるかも知れない、また大事なお金を失うかも知れないと言う事に対する一種の防護策の様に働いている心理活動だろう。
こういうと何だか科学的だが、要するに、過去失敗した事でそれが頭に刷り込まれ、その失敗を繰り返す事への恐怖である。
多分、これを読んでいる人も、その殆どに覚えがある事だろう。
例えば試験。例えば仕事。例えば恋愛。
どのような事であっても、失敗する事で大きなダメージを負った場合、それが言わば傷として心に残り、その古傷が痛む、或いは新しく傷を作りたくないからこそ、怖れを抱く。
勿論、それから逃げる事だって構わない事だろう。
往々にして、逃げる事は悪徳とさえされるものだが、俺はそんな事は無いと思う。
時に、逃げる事こそが肝要である事だって有り得るだろう。
否、寧ろ
勿論、逃げてばかりでも駄目なのだが、攻めるばかりが能でも無い。
逃げたって良い、と選択肢を持っておく事は、誰でも、どんな状態であっても、重要な事だと俺は思う。
だが、この「怖れ」となると厄介だ。
と、言うのは怖れとは、絶えず希望と密接に関わっているからである。
怖れの無い希望など存在しないし、希望の無い怖れも存在し得ない。
何かを怖れ、または絶望していたとしても、その大きな渦から一歩でも踏み出せば、その遙か先に光る一筋の光明が見えたりする。
その光が、夢か現かはまた、別の事として。
絶望に打ち
そして、変にちらちら下着を見せるものだから、何とか出来ないかと焦り、結果焦ってフラれたりするのだ。
ただ、それでも最終的には、怖れ、或いは絶望に抵抗し克服する事こそが勇気へと繋がり、そしてその勇気こそが希望へと至る為に必要なものではないだろうか。
そして、その為には己の弱さを見つめ、そして認めなければならない。
自分が何を怖れているのか、何から逃げようとしているのか、何に絶望しているのか。
それらをまず明確にし、総てを肯定し痛みを認めた上で超克しようとする意志。それが勇気であり、超克すると言う予想、それ自体が希望だ。
俺はどちらかと言えばペシミスト*1で、「頑張ったって駄目」、とか、「希望なんて闇雲に抱いた所でなるようにしかならない」とか思うタイプだ。
だが、「闇雲に希望を抱く」のでは無く、希望を現実にする為にはどうすれば一番着実か、単なる夢物語で済まさない為には如何にするべきか、と言う事を実践するというのであれば話は別になる。
それは単なる妄想、夢物語ではなく、現実化する策そのものだからだ。
そしてその事を、我が身を振り返って実践するべきなんだろう。
安易に希望を抱くのではなく、このしょぼくれている己自身を肯定し、幾つもの策を練り、実践する。
その結果が多分、希望なんだろう。
だとすれば、俺がするべき事は、例え少額でも勝つ為の策を練り、己を信じる事だろう。
多分、俺はこの後も何回か負けた負けたとしょぼくれたり、或いは同じ事を自分に対する叱咤の積もりで書く事だろう。
けれど、それでも俺は、最終的に現状を超克したい。
この侭では終われんから。
今宵も亦、煌々と紅く火星は照りつ。