真にモテないと言う事は在り得るか

 電車の中で、乗り込んできた女子高生の集団が、同じ車内のとある人を指し、あいつモテなさそう、等と嗤って居た。
このアマ、失礼な奴らだなと、他人事ながら若干憤慨もしたのだが、同時に俺の事じゃなくて良かった、と安堵し、そして内心は彼女らに同意ではあった。それじゃあモテねえわ、と。


 モテる、モテないと言うのは古今東西、そして老若男女問わず常に問題視されてきた事だと思う。
異性を惹き付ける為に媚薬を求め続けた皇帝もいた程だ。
俺達は己の遺伝子を残すと言う生物学上の使命によって、モテる必然がある訳だが、現実は往々にしてそうでもない。
だから、「モテなくて…」という悲痛な叫びを聞いたりする事も暫しある。
また逆に、他人が他人を指し「モテなさそう」と言う声も聞いたりする。
現に、それを聞いたからこそ、こうして考えてみた訳だ。
だが、俺は疑問に思う。
本当にモテない奴というのは存在するのだろうか。


 こう、書くととても嫌味のある書き方で、「お前には俺の気持ちは分からないよ」等と言い返されるかも知れない。
けれども、それでも俺は真にモテない奴など居ないのではないか、と思う。
では、何故全くと言って良い程モテない人があるのだろうか。


 まず、人間は外面で判断するものである。それは、一番手っ取り早く判断が行えるからだ。
だからこそ第一印象は肝要とされ、そして第一印象として刷り込まれたイメージは、後に覆す事は不可能では無いが難しい。
幾ら「人間、大事なのは内面である」と言った所で−それは確かに本質なのだけれど−その内面を判断するには時間を要する。
その間に、外面で判断され切り捨てられる事も多いだろう。
例えば、中身が同じ物が入っている箱があるとする。
一方は小綺麗に飾られており、もう一方は薄汚れている。
どちらかを取れ、と言われた場合、中身が同じであるのなら小綺麗な方を選ぶ人が殆どだろう。
それが外面で判断する事、人間で言えば髪型や服装である。


 「でも服装だけに気を遣う様なのもバカっぽい」と反論する方も居られるだろう。
そう、身なりだけに気を遣うのは莫迦のする事だ。だが、身なりすらも気を遣わないのも如何だろうか。
結局、それらは同じ穴の狢、表裏一体の事でしか無く、喚いた所で無意味な事だろう。
何も全身、高級なものに身を包む必要もない。警戒心、不快感を与えない事からまず始まる。
蜂のカラーリングが警戒心を喚起させるのと同様、人に不快感を与える服装、髪型などは厳然として存在するのだ。
そう、例えば真紫のスーツに金髪パンチ、と言うスタイルの様に。
勿論、判断するのはそれぞれの主観でしか無く、そんな服装が逆にモテる場合も些少ながら存在するのは事実。
だが、メジャリティとマイノリティとで分けるならば、矢張りマイノリティとなるだろう。


 美容院に行き、流行のとは言わない迄も、様になる髪型にし、同じく流行の、とは言わない迄も色味とスタイルの合った小綺麗な服装をし、見た目の印象は不合格ではない、と成る。
そこで初めて、内面の話になるのだ。
異性と接する際に、当然、卑屈な感じで虚ろな目で居ても、それを察されて疎んじられる事だろう。
先述した外面の事とは違って、この事は内面の顕れである。
何も自信満々で居る必要は無い。同性と接するが如く、普通に居れば良いだけの事だ。
つまり、自意識過剰によって自らモテないスパイラルに陥ってしまっているだけだ。
それらを払拭するだけでも、かなり結果が違うのでは無いだろうか。


 男女とも共通して言える事は、他人に与える印象を軽視してモテる事は殆ど無いだろう、と言う事だ。
言い換えれば、それは自分を如何に上手に包装するか、と言う事。
そして、次に如何に自分の内面を伝えるか、と言うプレゼンテーションに入る。
そこで必要となるのが最低限のコミュニケーションだろう。
前よりおされになった所で、黙っててもモテるなんて事もない。
何も、しゃべり上手である事は無いだろう。只、一方的に話すだけでもなく、かと言って何も話さぬ、と言う事でも無く。
これらの些細な条件をクリアするだけで、全くと言って良い程モテない、と言う事は無くなるのではないだろうか。


 外面の問題をクリアした後は、内面の問題になるだろう。
これは本当に、各個人個人で差異があるから、正直明確に答えを出す事は難しい。
だが、先述したプレゼンテーションのスキル、もっと端的に言えばコミュニケーションスキルの向上は、大きな成果を(もたら)す事であるだろう。
そこに反映されるのが、個人の深さ−趣味、知識、経験の多様さ、奥深さ、精神的なものの美しさなど−であると思う。
どうしても、見えないものであるが為に観念的、形而上学的なものになってしまうのは否めないのだが。


 こうして、内面、外面の双方を或る程度クリア出来た場合、モテない、等という事は無いのではないだろうか。
個人、それから性差、時代による価値基準は千差万別で、これまた明確に基準を持ち出す事は困難ではあるけれど、只、少なくとも一定のラインと成る様なものは厳然として存在するものだとも思う。
ある共同体の中でモテたい、と望むのであれば価値基準をその共同体のメジャリティに照らし合わせる必要はある。
もし、仮に、おしゃれになりました、コミュニケーションも大概上手く行える。けれどモテない、と言うのがあるとすれば、それは何処かしらバランスを欠いたものであるか、若しくは周囲の価値基準と乖離しているか、或いは本人がどこか卑屈になっているか、そのどれかではないだろうか。


 昨日記した「怖れ」の事とも被るのだが、どうせモテないから、と思い続けるとそれはやがて自己暗示となり、戦う前から逃げ出している状態、常に絶望している状態に陥る。
戦い破れても、「どうせモテないから」と自己弁護を行える訳だし。
そう言った状態を如何に超克し、戦って勝つ=モテる為の策を講じる事。
ある人は自然に行っている事かも知れないし、また、意図してもなかなか行えない人もいるだろう。
でも、最終的にはこの超克こそがモテへの一歩だと俺は思う。


 まあ、こんな事考えてるんだから、俺も大してモテる訳では無いんだけどな。
本当にモテる奴はこんな事考える事すら無いだろうし。
でも、我ながら、この事は割と真理を突いているように思えるのだが。