感情的になる事は悪い事なのだろうか

 良く、「あいつはすぐに感情的になる」と言ったり、または普段冷静な奴が感情的になったりすると「どうした?」と心配する様な事は、諸君の周りでも多く見受けられる事だと思う。
いずれの場合にしても、感情的になる事がイコール、何か悪い事であるかのような感じだが、果たしてそれは本当に悪であるのだろうか。


 俺は、悪でも何でもないと思うのだ。
普段、俺達はあまり感情的、衝動的にならないように生活している。
それが理性というものの働きであり、そして、「(わきま)える」とか、TPOと言う事だと思う。
一般的に社会生活を営む人間であれば、公の場で感情をむき出しにしたり、己の衝動に身を任せるような事はしない。
特に日本は、その傾向が強いと言えるだろう。だから、欧米などの町中で良く見られるような、快活に喜び合ったり、男女が接吻を交わし合ったりするのは国内ではあまり見ない。それどころか、一種タブー的な感じさえあるだろう。


 それは、単に日本が公と私、と言う分け方が厳しかったから、と言う理由に他ならない。
公と私と言う二極対立構造は、陰と陽であり、元々はハレとケ、だろう。
ハレとケについて説明するのがだるいので、一言で説明すれば、日常の生活であるケに対し、盆と正月、結婚や年祝いなどの日をハレとして、かつて日本のムラでははっきりと区別していたっつう事。晴れ着はハレの時に着るから晴れ着なのよ。


 公の場で感情的になってはならない。
それが暗黙の諒解であったと同時に、すぐ感情的に成るという事は、それを抑える理性が弱いと見なされる。
感情的になる人に対して「幼い」などと言う事はその表れだろう。
だからこそ余計に、人はなかなか感情を表に出さなくなる。


 だが、公から離れ、所謂「私人」となった時は別。
友人や恋人、家族との語らいの中で感情的になることは何のおかしさも無い。
と、いうよりも、人間同士の親密さが増し、距離が近くなるにつれ感情的になる度合いは高くなる事だろう。
それは、公から私へとスライドして行くに従って、その「私」としての濃度が濃くなるからである。
その人間同士の距離を、俺達は無意識に、かつ注意深く探るものだと思う。冷静であると言われる人程、注意深く。


 では、その冷静で、理性的な人が感情的になった場合に、奇異として映るのはどうしてだろうか。
先程、人は注意深く距離を探る、と記述した訳だが、それは相手の反応を見、鏡として判断している。
俺達は言葉だけでなく、視線、身体の動き、など様々な情報を無意識に発し、そして感じ取っている。
それらをつぶさに感じ取って「ここまで私的になっても大丈夫」とそれぞれが判断している。
相手が理性的で、あまり感情的にならない場合でもそれは同じ事だろう。


 しかし、あまり感情的にならないと言う事が長い間維持されると、それがスタンダードとなって刷り込まれる。
「この人は感情的にはならない人」だという一種の決めつけが為される訳だ。
だが、先述したように、人間関係が公的から私的へとスライドしていけば当然、理性的と言われる人も感情的になる時がある。
日頃は理性的であるが故に、それがよりクローズアップされ、奇異なものとして映り、心配されたりする訳だ。
勿論、誰しもが感情を有する以上、感情的になるという事は至極当たり前の事なのだが、人によってはそれが奇異と映ってしまう。
そこに戸惑いを抱く人も居る訳だ。
しかし、その戸惑いこそ間違いであると、俺は言わざるを得ない。


 感情的になる事の善し悪しは、勿論ケース・バイ・ケースではある。
暗黙の諒解として認知されている、「公」の場で感情的となる事はやはり、「悪」と見なされるものだろうし、逆に「私」の場で感情的になることは悪でも何でも無いだろう。
ただ、俺達人間が感情を抱く生物である以上、時に感情的となる事は避けられない。
怒りもすれば喜びもする。涙も見せればヘラヘラ笑う。
親しくなるに連れてその頻度は増えて然るべきで、逆に、幾ら親しくなってもその感情を見せず、常に何を考えてるか分からないような人間の方が、俺はどっかおかしいような気さえしてしまう。


 いつもいつも感情的になっているような奴は確かに厭だけど、でも、もし俺の友達や恋人が、怒りも泣きもしないような奴だったら、俺は不安感を抱いてしまうだろうし、寧ろ、親しくならないかも知れない。
親しくなる=公から私へとシフトして行く際に、少なくとも俺にとっては感情の発露の度合いが一つのバロメーターとして機能している事を知っているから。
目の前で怒ったり、或いは泣いたりと言ったマイナスの感情を全開にされると、それはそれで困ったり、俺も感情的になったりするのだけど、その分、距離が近くなるものだと俺は思う。
故に、感情的になる事はイコール、悪と俺には思えないのだ。