言葉の乱れと心的距離の曖昧さ

 以前にも何度か書いたが、ウチの親は英語塾の教師をしている。
塾と言っても極小規模なもので、どちらかというと寺子屋をイメージした方が解りやすい。
その生徒から「もしもしぃ、某ですけどぉ先生居ますぅ?」と電話があった。
少々お待ち下さいね、と親に代わった後で、今の子は小学生かと聞いたら何と高校生だった。
その、会話から滲む幼さからてっきり小学生だと思っていたので驚いた。
その俺の驚きっぷりを見て、親は「最近の子はあんなものよ」と溜息混じりに言った。


 何分、サンプル数が少ないので断定は出来ないが、此処昨今言われている言葉の乱れというものを肌身で感じた気がした。
何よりも、敬語・丁寧語の消失とタメ口(タメ語)の浸透を感じた。
実際に、街や電車の中などで会話しているのを耳にする事はまま、在る事だが、それは同世代同士での会話が主になっている。
タメ口であるのは半ば必然であり、端で聞いて汚い言葉遣いだと思っていても、仲間同士ならしょうがねえか、と思う事もあったが、いや真逆、縁遠い人に対しても大して変わらんとはね。


 言葉というのは相手と自分との距離を示すものだと思う。
縁遠い人や立場の違う人等には丁寧語を用いるが、それは意図的に距離を遠ざける為だろう。
謙譲語なんてのは、敢えて自らを下に置く事で相手を立たせ距離を取るものでもあるし。
同様にして、心的距離が近づく程に言葉はフランクなものとなり、その結果タメ口になったりする訳だ。


 人間は、自然と他人との間に距離を取りたがる。それは心理的距離と物理的距離とが比例するものだ。
既にそれは幾つもの実験が行われており、仲良くなって行く程に物理的距離は縮まっていくものだ。
大して仲の良くない奴に必要以上に近寄られると一種の嫌悪感を抱いてしまうのはそれで説明が付く。
逆に言えば、物理的距離を縮める事は心理的距離を近づけやすい事でもある。
一緒に一晩、隣、或いは向かい合わせで酒を飲んで仲良くなった気がするのはその所為で、普通なら徐々に心的距離を縮めて行かねばならない所を、ショートカットする訳である。


 それでも、一緒に飲む等と言う事は合意で距離を縮めるものであるだろうと言う事に対し、俺が体験したのは半ば一方的に心的テリトリーに入られた様な違和感であった。当然、相手は何も考えないで居た、或いは何も知らないで居た事だろうが。


 俺が思ったのは、こういう言葉の乱れと、他人との距離の取り方が解ってない奴の増加とは比例しているんじゃ、と言う事だ。
誰でも友達感覚、とかフレンドリー、と言うと聞こえは良いが、それは分を弁えないとか、無知と言う事に繋がりかねない。
上述した通り、人間はテリトリーを持ち、その内に土足で人を入れる事を嫌う。
だからこそそれを解る様に言葉に表していた訳だが、言葉の乱れの広がりはテリトリーという意識を曖昧にする。


 そして、テリトリーが曖昧になると、親しさ故の甘え等が全面に出てくる。
言い換えれば、礼を失す事が増える訳だ。
親しき仲にも礼儀あり、と古人は(のたも)うたが、それは親しくなると礼を失いがちになるから気を付けろという警告でもある。
礼を失せば当然、相手は怒る訳なのだが、その理由には当人は気が付かない。
普通なら、時間を掛けて「ここまでは大丈夫」とテリトリーを広げ、我慢の許容量を徐々に増やして行くものだが、急激に、そして強引にテリトリーを広げるとその許容量は小さいままで、故に些細な事で苛立ったりする。


 その事を裏付ける様に、ここ最近、特に若い人達の間で、友達同士なのに些細な事で殺してしまうという不可解さや、半ば何かを諦めたかのように人の事を全然大事にしない薄情さが目立っている気がするのだ。
また、他人の事を(おもんばか)る様な事無く、他人への想像力が欠けているような人も増え、自己満足の為にストーキングなどの犯罪を犯す様な奴も増えている。
他者との関係性に鋭敏だからこそ他人への配慮も出来ようが、そこに鈍感であれば他人の気持ちなど言わずもがな、になるだろうと言う俺の指摘は間違っているだろうか。
勿論、他人との関係性ばかりを気にしすぎて重度のヤマアラシのジレンマ*1に陥ってしまうのもまたどうか、と言う所ではあるけれど、それでも愚鈍よりは良い様な気もする。


 他人の気持ちなんぞ解る筈も無い。
でも、だからこそ察すると言う事が重要になってくる訳だし、気持ちを表す唯一の手段、言葉が重要であると思うのだ。
けれども、気持ちを察しようともせず、そして伝えるべき言葉自体が衰えて来ているとするならば、人はどうなるだろうか。
只の、自分勝手な生物にしか過ぎなくなるのではないだろうか。
否、現実として、そう成って来ている側面はある。
俺達は、他ならぬ自分自身と、大事な人間の為に言葉の重要性を再発見すべきではないか。
他人を察し、そして自らを察してもらう為に。


 ま、ケツの青いジョシコーセーの一言にこんなに考える事も無いつったら無いんだが。
それでも矢張り、言葉は重要だと思うから。だからこそ、考えるべき事なのだ。

*1:hedgehog's dilemma:哲学者ショーペンハウエルの作った話をフロイトが採用したもので、互いに傷付かない距離を保持しようとする対人関係の二律背反を表す。