死の事を考えていた

 死の事を考える、と書くと兎角、鬱状態なのかな、とか、自殺願望があるのかしら、などと勘ぐられてしまいがちだが、そうではなくて。
精神状態で言えば、俺は今、特に鬱でもなく、かといってハイテンションという訳でもない極めてフラットな状態にあるだろう。こういう状態であるからこそ余計に、気軽に考えられる。


 俺は死んだ事が無いから、死ぬと言う事が自分に対してどう作用するかは分からない。
死後の世界とかも見た事はないし、天国も地獄も行った事がない。だから、死後苦しみが待ち構えて居るのか、それとも安楽とした世界なのかすらも分かりようが無い。
例えば現在、何かもの凄い苦しみの中に居て、それから逃げるように自殺したとしても、その後更に苦しい事が待っている事も否定は出来ないし、死ぬ事で生きている時の苦しみから解放される事があるかも知れない。何の保証も無い訳だ。


 ただ、死なれた事は何度かあるので、残される方の苦しみであるとか、哀しみは十二分に理解する事が出来る。
形あるものはやがて壊れ、命あるものはやがて死す。諸行無常。それがこの世の習わしだ。
だから、どんな人にも誰かの死を乗り越えなければならない瞬間は訪れる。
この、死を乗り越えて、と言う言葉は良く耳にするが、誰しもがそんな簡単に死を乗り越えられるようなモノでも無い。
まして、路傍の石の如き人間なら兎も角として、距離の近い人間であればある程に、乗り越えて行くと言う作業は困難を極めて行く。人によってはそれが出来ずに、心を病んで仕舞う事もあるだろう。


 どうせいつか死ぬのであれば、早く死のうが遅く死のうが変わらない、と言う人もいるだろう。
以前、俺もそう思っていた。
もとより俺は、自分がそう長くは生きられないと言う、何も根拠も無く大層強い確信を持っていた。古代ギリシャでは、若くして死ぬ事こそ美しいと言われていた、と言う事を何処かで読んだかしたのも、一つの原因かも知れない。
俺は多分16歳くらい迄に死ぬだろうな、と思い、17になると次は22歳くらい、23になれば25くらいで死ぬだろうなと思っていた。
気が付けば齢は既に30を越え、そしてそろそろ死ぬだろうと思う事に飽きた。諦めた、というのもある。


 ただ、単に飽きたとかだけでもなくて、やはり残される側の悲しさなどを考えると、死ぬに死ねなくなったのかも知れない。
確かに、どうせ何時かは死ぬ事になるのだが、その際に誰かに与える哀しみなどは、なるべく後回しにしておきたいと思うようになった。
こうして安穏と生きている間に、なるべく深い悲しみなどは遭遇しないに越した事は無いし、遭遇させない方が良い。
後回しに出来るのであれば、そうしとくのが吉、と、そう思うようになったのだ。


 人はもとより孤独である。生まれる時も死ぬ時も、一人だけである。
だが同時に、人は決して孤独では無いという矛盾がある。
生きていく間に、誰かから影響され、そして誰かに影響を与えて行く。その円環の中に俺達は居る。
そして、その円環の中に居る以上、俺達は必然的に、孤独では無くなってしまう。否が応でも、誰かとの結びつきが生ずる。
その結びつきが強ければ強い程に、先述した通り、死んだ後で深い悲しみを与えてしまうのだ。
だから、自分が孤独だと思いこんでいても、本当はそんな事は、多分無い。


 ありきたりな事だが、死ぬと言う事は単に無に帰すだけだろうと思う。
だが、例えば俺が死んだ後も世界は依然として在り続ける。
その、日常に在り続ける人達の思いや哀しみなどは、死んでしまった側からはどうする事も出来ない。
それもそれで、何だか口惜しいものがある。


 メメント・モリ(死を思え)と言う言葉がある。死を思う事でより生を照らす、と言う意味合いの言葉だ。
この言葉と共に、俺の心の中には美しく死にたいと言う願望がある。これらが合わさって、美しく死ぬ為には美しい生こそ重要だという結論が、俺にはある。
だが、やっぱり死のことは良く分からなくて、そして美しい死とは何かもやっぱり分からない。況や美しい生をや。
ただ、どうあがいても、死ぬと誰かを悲しませてしまうのであれば、哀しみだけではなくて、感銘とか、そう言ったものも残して死んでいきたいと思うようになってきた。それが美しい死であるかは分からないが。


 そしてやっぱり帰結するのが、どうせ死んで、誰かに悲しい思いをさせるなら、それはなるべく後回しにしたい、と言う願望だ。
生きたい、と言うポジティヴな意志ではなく、寧ろ消極的な理由だと思うけれど。
ただ、それでも、死にたいって思うよりは良いかな、とも思う。


追記 いや、ホントに鬱とかじゃ無いですよ。どちらかと言うと、片手でポコティム触りながら書いている、そんなイメージで。オナニーしてる訳じゃねえよ?