若手作家の文学賞受賞

 第130回芥川賞直木賞選考会が開かれ、芥川賞に史上最年少となる綿矢りさの「蹴(け)りたい背中」と、金原ひとみの「蛇にピアス」が選ばれた。これまでの最年少受賞者はいずれも23歳。中で最も若かった丸山健二以来37年ぶりに記録が更新された。
また、 直木賞には京極夏彦の「後巷説(のちのこうせつ)百物語」と、江國香織さんの「号泣する準備はできていた」が選ばれた。


 この面子を見て、特に芥川賞は敢えて若手を受賞させたようなきらいが無きにしもあらず、と言った感は拭えなかったのだが、それでも、この二人が受賞された事には大きな意義があると思う。


 と、言うのもこれら芥川、直木賞は一般的にある程度のネームバリューを兼ね備えており、故に若手には中々縁のあるような賞では無いんじゃないかな、と兼ねてより思ってはいた。
所が、それが覆された事によって、物を書く事を生業にしている人達には目標となり、また、特に金原ひとみの受賞はさまざまな人達に影響力を持つものだとも思う。


 金原ひとみはいわゆるフリーターで、そして失礼ながらどちらかと言えば社会不適豪奢のような印象を受けるのだけれども、そう言った人達にも道があることを自ら示したと思うからだ。
現在、社会は不透明で行き先が暗く、絶えず目に見えぬ閉塞感を帯びている。
どんな人々も不安を抱えているだろうけれども、その中で特に余波を受けやすいのが、社会的弱者であるフリーターやさまざまな理由によって社会不適合者とされている人達だろう。
そう言った人達にも道を示したと言うのは大きな意義なんじゃないかな、と。
無論、何よりもその本人の努力や、姿勢そのものがこの結果を導き出したとは思うけれども、何も報われないよりは報われたほうがいい。
そう言った意味でも、この受賞自体には意味がある。


 その一方で、では文学とはどういうものなのか、と言う疑問も改めて浮かび上がっては来る。
これは京極の受賞からも思ったことではあるのだけれども、どちらかと言えば京極や綿谷の小説は文学と言うよりは通俗小説と言うか、あまり肩肘を張らないで読めるようなものだと思う(金原のは読んでないのでコメントしない)。
どうしても、「文学」と言う言葉には高尚なイメージが付きまとい、そして堅そうとか頭よさそうとか難解そうと言う印象がある。
俺が、三島や大江は結構好きと言うと、大抵は難しそうと言う顔をされるように。


 でも、ひょっとしたら、文学とは何か、なんてものを考えるほうが、ひょっとしたらおかしいのかも知れないね。
人が書き記したものはどんなものでも文学なのであって、低俗か高尚か、おもしろいかつまらないかは読者それぞれが判断するべきこと。
今更言うまでも無く、良いものは何時までも後世に残って行く物だし、一時的な流行は所詮廃れるが定め。
それを、文学だの何だのと論じ当てはめようとするからおかしな事になるのかも知れない。


 真の文学とは何か、なんて事はわからないけれども、たとえ一人であっても、その人の心に深く刻む事が出来る物語があれば、それは真の文学たる資格を持っているような気がする。
影響を受ける人が多ければ良い、と言う訳でもどうやら無さそうだしな。
「知れない」とか「気がする」と、曖昧な言葉ばかりで悪いんだけれども、でも、俺はそう思う。