「ネット心中」について書いたものに来たメイルへの返答

 まず、本文に進む前に、俺自身のスタンスを改めて明記して置きたい。
俺は、自分に対する賛同ばかりなど望んではいない。
俺が言ったり書いたりしている事に対しておかしいと思う人が居るようであれば、反論などがあって当然だと思っているし、その反論にも耳を貸し考え直してみると言う行為自体が重要だと思っている。
そもそも、俺の考える事が総て正しいなどあり得る筈もなく、俺はこれからあと100万回くらいは間違った事を考えたり言ったりするだろう。その際に、「それは違うと思うよ」と言う人が居るからこそ、独善になりすぎず、フラットな位置で思考を保てるのではないか。
勿論、自分自身そう易々と考えを変える訳にも行かないから、その反論をすんなりと俺が受け入れるかどうかは別の事だが、それでも、大事なのは耳を傾けてみる事だと俺は信じて疑わない。


 さて、では本題に入ろう。
俺が横浜を離れている間、匿名メールに色々と来ていたのだったが、その中に一通、嘗て書いた、ネットで知り合った連中との心中の事に対する感想と思しきものがあった。
送信日付は1/12で、当日、及び最近の日記の内容とメイルの内容がかけ離れているので、恐らく件の心中について記したものだろうと言う推察の上である事をご了承頂きたい。


 これが、メイルの内容である。(全文ママ)
「生きている間に、誰とも入れない悲しみなんてワカラナイのでしょう。だから、最後には一緒に痛いとおもうんだよ。勝手な事、いわないでほしい。」


 これを読んで、最初は当惑したが、その心中について書いたものの感想であろうと考えると、何だか無性に腹立たしく、同時に切なくなった。
このメイルに反論する形で、文を続ける。


 貴君は誰とも入れない(居られないの間違いか)悲しみ、と記しましたが、では、貴君は逆に二人で居る時の寂しさ、或いは多人数で居る中の寂しさなど分からないでしょうか。
孤独と言う一種の寂しさ、悲しさは、誰と居ようが常に背後に在るものだと俺は思います。
だからこそ、人はその寂しさを理由に誰かと出会いたがり、話したがり、触れ合いたがるのではないでしょうか。
一人でいるから悲しいのではありません。人であるからこそなのだと思います。


 俺達は、絶えず心の何処かに空白が空いているものなのでしょう。
その空白を少しでも埋める為に他者と感情や、趣味や、意見や、思考や、雰囲気、その他諸々の事を共有したいと思うのです。
そして、その空白は人によって大きさも違いますし、埋め方も様々であることでしょう。
ですが、埋めようとする事無しに、勝手に埋まるような事はそんなに無いのではないか。
意識的にしろ、無意識的にしろ、その空白を埋めようとしなければ埋まらないのではないかと思うのです。


 貴君は、俺に誰とも居られない悲しみなど分からないでしょう、と問いました。
ええ、わかりません。
孤独を感じ寂しいと思う事は侭、あります。時に刹那的な、或いは退廃的な衝動にさえ駆られる事もあります。
ただ、俺はそうしても後で更に深い空しさが胸中を占める事を知っているので、いつもぎりぎりの理性で踏み止まっていられて居ますが。
貴君には、そう言う感情はわかるでしょうか。


 分かるはず無いのです。似たような感情を抱いた事があったとしても、それは俺の感じたものとは違う筈です。
本質的に、他人の気持ちなど分かる筈ないのです。だって、貴君は俺ではないし、俺は貴君ではありませんから。
「そんな事云ったらおしまいじゃないか」、恐らく貴君のみならず、殆どの方はそう仰るでしょう。
その通りです。だからこそ相手の気持ちを推察する事が大事なのです。
分かりやすく言い換えれば「思い()る」と言う事です。
そして、この思い遣ると言う事こそが、他者とのコミュニケートを図る上で非常に重要であり、心の空白を埋める為の一歩と成り得る事ではないでしょうか。


 と、言うのは、他者と様々な事を共有すると記した事と深い関わりがあります。
他者の喜怒哀楽の重さを自分の中の重さに変換し、共有する。自分の感情も共有して貰う。
これこそが、より深いコミュニケーションであり、より強い他者と絆を生む事なのではないでしょうか?
その作業には恐らく終わりは無く、時に苦しみや悲しみも伴う事でしょう。また長い時間を要する事でしょう。
ですが、その築き上げるものの見返りは確かに存在すると俺は信じて疑いません。


 貴君が、だからこそ最後に痛い(恐らく「居たい」の間違い)と記したのは、その作業を放棄して、適当に美味しい所だけつまもうとしているような気がしてなりません。
勿論、俺も死ぬ時は大事な人達に看取られるか、或いは一緒に死んで行きたいものだとは思います。
けれども、それは共に様々な事を共有した間柄の話であって、何も築き上げていない、何処の馬の骨とも分からない輩と心中するのは御免被りたい所です。
事故などの類であればそれも是非無しとは思いますが、避けられるのであれば避けたい。


 俺が怒りを抱いたのは、その「美味しい所だけつまもうとしているのではないか」と言う点、それから、「他者と居られないから悲しい」と言う二点です。
他者と居られないのなら、居られるようにすればいい。そうでしょう。
居られないと言う事の何が原因なのかを探り、その原因を改善する。
最初は上辺だけのコミュニケーションでも、それらを積み重ねて行けば話は変わる事でしょう。
また、どうにも合わないようであるのなら別の人達を探せば良いでしょう。
貴君が如何程、誰かと関わったかは知りませんが、恐らく貴君の思っている程人間は単純ではありません。様々な人間が存在します。
僅かばかりの人間を見て判断したのであれば、それは井の中の蛙と言わざるを得ません。


 ほら、そう考えると死んでる暇など無いのです。
本来、俺が偉そうな事を言えた義理ではありませんが、それらの作業をする事無しに憂えるのは単なる怠慢でしかなく、それによって死を選ぶのは自己に都合の悪い事を見ようとせずに逃げる事に相違ないのではありませんか。


 死ぬのは楽なのです。
けれども、死なれた方は苦しみや悲しみが残されます。場合によっては精神を患ってしまう程にね。
物は壊れる、人は死ぬ。それは避けようのない不変の摂理です。
ですが、どうせいつか死ぬのなら敢えて死ぬ事も無い、出来るだけ後に、その悲しみを植え付ける事を伸ばして置くべきだ、と俺は思います。
大事な奴らに死なれたら俺はとても悲しい。だから死なれたくない。
同時に、俺が死んだら悲しむ奴が居る。だからなるべく死なない。
どうしようも無くなったらそれまでだけれども、その時が来るまで出来るだけ生きているべきだ、と俺は思うのです。


 恐らく、もう此処を読んでなど居ないでしょうが、これが俺の、貴君に対する返答です。
それと、俺が勝手な事考えて、勝手な言い草を書くから俺のエッセイなんじゃないか。これからも勝手に書くので宜しく。