子供に煙草の火を押しつけるリーマンと、格好良い女を見た事

 スロを打っていたら煙草が切れたので、自販機で買おうと関内のカレー博物館の対面にある小径を少し入った自販機に赴こうとした時のこと。
その、小径に入る所にはコーヒーショップがあるのだが、その店先に親子連れが居り、母親は子供を後ろに立たせメニューか何かに見入っていたのだが、近づいて来たコートを着たサラリーマン−恐らく年齢は俺と大差無いだろう−が、その子供の手に徐に煙草の火を押しつけた。
偶々当たったと言う訳ではなく−いや、偶々であってもそれは我々喫煙者がしてはならない事で、常に気を付けなければならない事なのだが−本当にトコトコと近付いて行って、子供の手を取ったと思ったらギュっと押しつけて居た。


 え? と俺は一瞬何を彼がしたのか分からなくなり、やにわに子供は泣き始め、母親も子供の方を見ていなかったから、唐突に泣き出した子供に何が起こったかを理解出来ずおろおろとしており、サラリーマンは立ち去ろうとしていた。
そこに、俺のちょい先を歩いていて、同じく事の顛末を見ていたであろう通りすがりの女性−これも、俺と同じ位か、俺よりも若い感じ−がサラリーマンをとっ捕まえてカレー博物館の前に居る警備員に突き出した。
サラリーマンもまさか捕まるとは思って居なかったのだろう。狼狽が見て取れた。


 その、女性の対応の迅速さと行動の大胆さに、俺はちょっとした感動すら覚えつつ、そして自分が遅れを取った事に後悔と申し訳無さを感じつつ、今更自分がしゃしゃり出る事もあるまい、と、其処を後にした。
「義を見てせざるは勇無き也」、などと自分を軽く責めながら−いやまあ、多分その女性が居なければ俺が動いて居たではあろうが、結果は結果。俺は遅れを取ったのだから。


 こうした、抵抗も出来ない相手を見計らって暴力や暴言を浴びせる卑怯千万な行為は大嫌いなのだが、昨今の児童虐待などの増加と言い、この事件と言い、一体何が、人の心を蝕んでいるのだろう。
日々、ストレスが溜まっていくのはその程度の強弱はあれど、誰にでも有り得る事であって、自分だけが特別なんて事は無い。
他にもストレスを解消する手段は多々あれど、敢えてその憂さを晴らすために弱者に向けて己の怒り、或いは憎悪の権化のような物をぶつけるのは甚だしい筋違いであるし、真の意味で負け犬である。


 驚いたのは、如何にも質の悪そうな者が行ったのではなく、一見普通の、何処にでも居そうなサラリーマンが何の躊躇いも無く行動に出た事だ。
だからこそ余計に、他人の痛みが分からないとか、自分さえ良ければどうでも良いとか、そう言った病理とも言うべきものの質の悪さと奥深さを感じずには居られない。


 何かが不満で、こうした病理が蔓延するのだとすると、と考えて居たら俺は最近知った言葉をつい思い出した。
今、日テレ系列の深夜でやってるアニメ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX*1」の中で出て来た「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ。」 と言う言葉だ。
恐らく、この言葉の解釈自体には多々あるだろう故に言葉に対する論議は敢えて避けるが、俺はポジティヴな意味で自己変革せよ、と言うものだと認識している。
弱者に対し矛を向けるのであればその矛を己に向け、そしてその痛みを鞭として変わるべきだと俺は思う。
ま、ここで幾ら吠えたって負け犬にはその声は届く筈もないのだがな。だって、聞く耳を持たぬから負け犬なのだろうし。


 そして、もう一つこうした事を防げるのは、あの女性のような行動に他ならないだろう。
多分、男に対する恐怖もあっただろう。けれどそれを感じさせぬ堂々とした振る舞い、自身では無く他者の痛みに対しての怒り、そうしたものが病理の結果に打ち克つのでは無いだろうか。
正義だとか善行だとか、そうした言葉を用いると何処か他人行儀な、そして痒いような感覚を覚えてしまいがちだけれども、俺達が飯を食い、糞をするような感覚で本当は居るべきなのかも知れない。
その事を俺はあの女性から教わったし、同時にあんな頭の変なリーマンも居るけれども、見て見ぬ振りする人ばかりでは無く、それを正す人も居る、世の中まんざらでも無いなと思った。


 次に、俺がそう言う場面に出くわしたら、もっと早く駆けつけよう。
看過すればやっぱり自分自身に許し難いものがあるし、何よりも自分を安くしてしまいそうで、厭だ。
それに、あの女性は格好良かった。見習って俺も格好良くありたいしね。

*1:映画マトリックスにも多大な影響を与えたと言うアニメらしい。良く考えられ、良く出来ていて、大人の観賞に十二分に耐え得る。俺は万人に勧める。