柳美里、朝日の夕刊を打ち切られる

朝日新聞の夕刊で連載されていた柳美里の連載小説が未完のまま終了という、なかなか無い終わり方をした。
朝日取ってないのでよう知らん、と言う方は>>こちらクリック。
ウチでは朝日を取っているのだが、夕刊に突然お詫びの言葉が書かれていて、「え、こんなことあるの?」と些か驚きもした。
因みに、これは読売の記事をYahooでニュースとして扱ったものだけど、なんで読売やねん。朝日ちゃうん。


註:記事を読むと柳美里が降りたような印象があるが、柳美里のサイトの日記を読むと、どうも所謂「打ち切り」らしい。


 正直、俺、柳美里嫌いなんですよ。
同じ(元)横浜市民、そして同じ学区出身で贔屓のひとつもしてやりたいんだけど、ごめん、無理!
確か、俺が最初に読んだのが「水辺のゆりかご」で、読後の何とも言えない後味の悪さに胸焼けしそうな印象を抱いた覚えがある。
そうだ、その頃に芥川賞を取り、一応はこっちも読んでみるかと受賞作である「家族シネマ」も目を通したのだけど、やっぱ気分悪くなって投げ出したのだった。


 その本には、彼女の今までに積み重ねてきた恨みやコンプレックス、そして不幸の数々を、どちらかと言えば露悪趣味的に「あたしってこんなに不幸なの!かわいそうでしょ!」とストリーキングして恍惚とするように活字にしてあって、俺は読み進めるうちにあたかも、夏場のゴミ箱を覗くような感覚をすら思えた。
勿論、この事は賛否両論あると思う。
そう言う、敢えて露悪的な私小説の組み立て方もあると思うし、その事自体を否定はしない。美しいものばかりでなく、醜いものを照らし出す事も文学の重要な役割だと思う。
けど好き嫌いから言えば、やっぱ美しいものを俺は好む訳で。
そもそも表現作品なんてものはオナニーの一端でしか無いと思っているけれども、なんか小汚えオナニー見せつけられても鬱陶しい。


 話を少し戻すけれども、この朝日の夕刊で連載されていた小説は、俺も新聞を読む時に読んではいた。
最初の一月くらいまで、我慢して読んでいたのだけど、韓国語が氾濫し始め、台詞と括弧付きの対訳がコーナーをびっしり覆うようになってからは読む気が失せ、また挿絵も何かこう嫌悪感を抱く感じのものであったので、いつの間にか路傍の石の如くとなった。
正直、良く500回も続けていたとは思うけれど、果たしてどれだけの読者が付いていっていたかは定かではない。
俺としてはやっと終わってくれたのか、という思いすらある。


 ただね。偉そうな事を俺が言えた義理じゃないのだけど。
人によって小説の書き方は何通りもあると思うし、最初におおまかな構想を立ち上げ、それに沿って書く人もいれば、文章が降りてくるのを書き連ねる人も居ると思う。
でも、仕事は成し遂げるのがプロなんじゃなくて?
職責を全うしてこそ「作家」という職人の証なのではなくて?
例え醜い小説であっても、書き上げて売れたら作家。書き上げられなかったらそこらの同人と一緒。
とても辛辣に、そして厳しい事を言っているかも知れないけど、でもそう思う。


 文章、ないしは作家に対する好き嫌いという感情を排除しても、いや、作家という職業に限らず、某かの事を生業としているのであれば、その仕事に妥協せず、職務を全うする事を第一に望むべきだ。
そしてその事を俺自身もまた、忘れぬようにしなければならない。
ああ、本当に、好い加減な気持ちで職務を遂行すべきじゃあ、ない。