仮想・東京同時爆弾テロ

 X月X日、午前八時丁度。
朝の通勤、通学の混雑でごった返す新宿、池袋、渋谷、横浜の4駅のホームで大規模な爆発が発生した。
その爆発の規模の大きさと、独特の匂いのする硝煙を嗅いだと言う多数の証言によってC4=セムテックス、或いはプラスチック爆弾と呼ばれる爆発物が使われた事が判明した。
タチの悪い事に、その爆発物には小片の鉄屑が紛れ込ませてあり、より殺傷力の高いものとして作られていた。
現場は宛ら地獄絵図と化し、パニック状態になった人々による二次災害も発生し死者は判明しているだけで2000名以上、重軽傷者は一万人以上にも及び、都内の医療機関だけでは賄う事すら出来ず、近隣の千葉、神奈川、埼玉の方まで手を借りる事となった。


 直後、アルカイーダを名乗る組織から「米国に荷担する国々は(ことごと)く血と涙を流すであろう。」と言う犯行声明が出される。
その声明の発表後、時を開けずして、日本イスラム協会からは「我々はイスラム民族ではあるが、アルカイダとは無関係であり、この事件によって被害に遭われた方々の冥福を心より祈る。」と言う声明が発表される。
しかし、その声明も虚しく、イスラム系住民は悲しい目に遭う事になる。


 首相は直ちに臨時国会を開き、国民に平静を取り戻すように指示しつつ、「テロには屈しない」と発言。
国内ではその発言について意見が割れ、将に、天下を二分する大騒動となった。
野党は内閣不信任案を提出、衆議院で可決され、後に解散、総選挙が行われる事となった。


 都内は二次テロを怖れた人々が出社、登校を拒否し(にわか)にゴーストタウンの様相を呈した。
その一方でテロの直後から、怒りに駆られた人々によって、当初はイスラム系と見られる民族に対し容赦の無い罵詈雑言や暴力が行われたが、それが後に人々を煽るデマゴーグによって拡大して行き、中国人、韓国人などと言ったアジア系の民族に対しても行われるようになった。それは最早、弾圧とすら言っても良いものであった。
また、更に後、駅の防犯カメラが捉えていた映像によって犯人らしき人物が明らかになると、犯人の内一人はスーツケースに大量に爆発物を仕込んだ白色人種−恐らくツェツェンの人間−である事が判明、イスラム、アジア系民族の他、白色人種までもが目標となった。


 爆弾テロによる恐怖の為に判断力を喪失し、日本人以外は皆、テロリストだという盲目的な不安に駆られ、自発的に組織された自警団らによって全く意味のない狩りが行われ始めた。
当然、警察らによってその行為は摘発対象とはなったものの、警察官もまた不安の最中にあり、また、あまりにも多発していたので黙認されるケースも多かった。
特に、都内に限らず日本各地で外国人が多い地域では暴動の様な有様となり、各地の機動隊はその鎮圧に、将に右往左往であった。
一部知識人やマスコミは「関東大震災時の二の舞」と激しくその暴力を非難したが、怒り、恨み、悲しみ、そして無知と揃った一部の人々にはその声は届かず、逆に火に油を注ぐような事となり、一部の新聞社さえ焼き討ちに遭う事となった。


 数日を経て、国民の不安、恐怖、猜疑の最中、内閣の是非を問う総選挙が開催される事となった。
焦点は勿論、イラクからの撤退であるのだが、ここで国民の意見はまっ二つに分かれた。
イラクからの撤退を支持する者は、「テロに屈するのか」「非国民」などと言われ、イラク駐在続行を支持する者は「まだ懲りないのか」「お前らの様な奴が居たからテロを招いた」などと言われた。
どちらを国民が選ぶのか、その結果が明かになったのは深夜。
翌日の新聞には一面でこう、書かれていた…。


 …つう想像をちょっとしてみた。
スペインでも大きなテロがあって、軍はイラクから撤退、政権は交代と言う事がつい先日あったばかりであるが、素朴な疑問として、小泉はこういった事があって尚も、イラクからの撤退は行わないのだろうか。


 撤退という考え方には二つあって。
一つは、「こういう事があったからこそ撤退しない」とする説。
我々は断固として、テロなどの暴力には屈せずと言う意志を表示する為の事である。
もう一つが、「こういう事があったから撤退する」とする説。
これはスペインがまさにそう。流血を避け平和を望む意志を表すもの。


 選択の結果などと云う物は、その時には正しいだの間違いだのと言う事は分からない。
必ず後になって、「あれは正しかった」「あれは間違っていた」と思うものだ。
だが、その選択を選ぶ事で、後に満足するか、しないかと言う事くらいは予想を立てる事が出来る。
改めてこのイラク問題でどちらかを選ぶ場合、どちらがより、大きな満足をする事が出来るだろうか。
小さな不平、わだかまりを抱く事があっても、選んでおいて良かったと思える選択肢は果たして、どちらになるのだろうか。


 俺はやっぱり、大勢の人が死にもせず、大きな恨みも悲しみも抱かずに済む方が、後で良かったと思えるんじゃないかなと思う。