俺(Wacrema)の総括というか、種明かしというか

 まずは、メイルや投稿、そしてWEBに記して下さった方々、どうもありがとうございました。
また、書いては居ないけれども、考えて下さった方々、どうもありがとうございました。でも書いてね。次は。


 はじめに、言い訳がましいけれども、俺個人として、感情的にムキになって反論した、と言う意味合いで二日に渡って書き続けたものでは無いという事を記しておかねばならないでしょう。
いや、勿論カチンとは来ましたよ。それは否定しません。
その感情を抑えて書いた積もりでは居たのだけど、やっぱり表に出たらしく、そこをFujiponさんは指摘して居られます。
でも、ここで改めて、個人を攻撃する類の文章では無い事を明記しておきます。


 まず、答え合わせと言うか、何故俺が問いを出したかをお答えしましょう。
何人かの方が既に言及されていますが、問1と問4はほぼ同義のものです。そして問2、3は言わば派生と言える代物です。
問5は、「ほなどうしてそう思ったん?」という、率直な疑問です。


 突き詰めれば、偽善について考える事は善について考える事となります。
しかし、善というものは倫理観、歴史、法、宗教、様々な観点に拠ってがらりと変わる代物でもあります。
本来、絶対的価値基準とも言うべきものですが、同時に、極めて流動的でもあるという矛盾を抱えたものです。
「法に則った善」「教義に則った善」という前提条件の無い限りに於いて、善の定義は為しようがありません。
それは、古来より現在まで、様々な哲学者、倫理学者によって語られている事が証明となります。
この事が問4に於いて、俺が敢えて問わなかった事の答えですし、また或る意味、俺の出した宿題は愚問極まりない代物ですらあるでしょう。
しかし、その愚問を敢えて出した意味があります。


 善について、並びに偽善について考えた答えが人によって変動するという事実を必要としたのです。
そして、人に対し「偽善者」と論じる事の空しさを導き出そうと思ったのです。
その俺の思惑に気付いてか、匿名の方は「人体実験」と論じられて居ます。
もし、この俺の思惑に怒りを覚えた方が居られたなら、俺はこの時点で謝罪せねばなりません。
俺は故意に、そう言う事を行ったのですから。


 善、或いは偽善について語る事は結局答えの無い、ぐるぐると回るメビウスの輪の様なものだと書きました。
しかし、個人の中に於いては、漠然と、或いは顕然と、善と云う物の定義は存在すると思います。
その善に従って、俺達は動いている筈です。
だとすれば、例え明確な答えが出なくても、善、ないしは偽善について考える事は無意味とも言い切れないのではないか。
少なくとも、自分の善の拠り所を際だたせる事には繋がるのではないだろうか。
俺が問うた意味の二つ目は其処にあります。


 他人に対して自分の価値観を押しつける事は傲慢以外の何者でも無いでしょう。
しかし、自分の価値観を「俺はこうなんだ」「私はこう」と見せ合う事は、自分の価値観と照らし合わせ、そして様々な価値観を知る事になります。
異文化コミュニケーション、と言うと何だか仰々しい感じになりますが、でも、その基本は他人の価値観を知り、そして「そう言う考え方もあるんだ」と認める事では無いでしょうか。
その意味に於いて、善や偽善について考え、論じる事は決して無意味なものとはならないと俺は思っています。
少なくとも俺は他の人の「善」を知りたいと思いました。


 答えなんて出ないから、論じる必要なんてないよ。
そう書かれた方も居られましたし、そう思われてる方も多いと思います。
俺は、そう考える方も否定しません。
けれども、答えが出ないからと言って思考しない、論じない、と言うのは翻ってみれば哲学の否定にも繋がると思います。
まあ、哲学が社会に有用か否かはまた別ですが、兎も角、なんだかそれは勿体ないな、とも思うのです。
些か暴論で、かつ極端な例かも知れませんが、「織田信長本能寺の変で討ち死にしなければ」とか「真田幸村後藤又兵衛が協力出来ていれば」と考え論じ合う事は何の得にもなりませんが、でも、その時はなんだか頭が潤うのです。


 善の事など、考えても答えは出ない。
けれども、その漠然とした善と言うものの照らす方向へと、俺は向いて居たいと思うのです。
だからこそ、時にはこうして考える事も意義深い事となる、そう思うのです。


 勿論、この考えを押しつける積もりもありませんし、また、これらの事を踏まえた上で、俺を「偽善者」と誹るのならば構いません。
事実に反する事を言われ、中傷されるのなら否定します。
しかし、某かの事実に即し、俺に対して「偽善者」という価値観を持たれているのであれば、それを俺が否定する事は恐らく出来ないでしょう。それは個人の価値観の否定に繋がってしまうからです。
極端な二択にするならば、悪口雑言を叩かれても、自己矛盾や自己欺瞞をするよりは納得が行く。
いや無論、悪口雑言なんて叩かれたくも無いのだけれども、でも、難しいだろうけれども斯くありたい。
それが俺のスタンスです。



追記 偽善については指摘通り、既に2003年5月8日に書いてありました。
すっかり忘れてたよ。でも、今も思う事は同じ。良かったら参考までにご一読あれ。


併記 改めて言葉というものは、己の口から、或いは手から飛び立った瞬間に、自分の思いも寄らない代物に化ける事も多いのだなあと思った。
なるべく我が意そのままの形で伝わるように、言葉を練り上げて、そして放つ事の重要性。
その事を再認識すると共に、自戒。