著作権に関して引き続き書いた

 んとですね。
二日ばかりWinnyに関して書いてきた。
俺の、一番言いたかった事は実は著作権に関してではなく、著作権を足がかりにした警察の、法律・権力濫用と憲法侵害についてであった。
日本は、法治国家である。しかし、法の執行者たる一警察が、法の解釈をねじ曲げ、法理論を無視し気に食わないものを豚箱にブチ込むと言う、言うならば禁断の扉を開いたのだ。いや、まあ前からしていたのだけども。
その姿勢のおかしさをこそ、俺は危惧し、書いた。
しかし、その「おかしい」と言う事を、何故おかしいのか、と説明する為にはどうしても著作権に関して考えなければならない。
もともと著作権というもののあり方にも、また、監督団体に抱くキナ臭さも手伝って話が随分膨らんだのであるが。


 と、その膨らんだ話に対するコメントとして前回、結構長いコメントが寄せられたので、それに答える形で書いていこう。
呉々も断って置くけれども、反論とか、そう言う類のものじゃあないから。
そうだね、よもやま話として読んでおくれ。


 指摘されている通り、著作権とは総ての創造物に対して付与される権利であり、著作料とはその権利を使用するに当たって支払われる対価である。
理想から言えば、総ての著作権には著作料が支払われるべきであるのだろう。
しかし、それが行き過ぎれば個人が自由に楽しむ権利を「金」が侵害して行くという側面もある。
それを象徴的に表すのが、 社交ダンス教室に対する演奏差止と損害賠償を認容した判例だろう。
これは、平成16年3月4日、名古屋地裁が、JASRACが控訴していた愛知県下の社交ダンス教室に対する演奏差止と総額3,646万円余の損害賠償の支払いを認め、命ずる判決を下したもの。
社交ダンス教室で使われた再生・演奏を「公の演奏」にあたるとした判断し、不当利得に基づく利得返還義務を被告側に命じた。


 これは、言い換えれば、学園祭でコピーバンドを組んで演奏する時も駄目になるし、駅や商店街などで誰かの曲を弾き語りしても駄目。別の喩えでは、好きなアーティストの曲を口ずさんで居て、それを誰かに聞かせてしまったら「公の演奏」と見なされて課金されてしまう可能性があるのだ。
これは極論と思われるかも知れないけれども、事実だ。
厳格にすればするほど個人の権利は侵害され、また、個人の権利を尊重すれば著作権はないがしろにされる。個人が楽しむ権利、それと著作者の権利を守る事、そのバランスが難しく、神経を使う必要があると口酸っぱく言っているのはこの辺りの事も関係がある。



 では、それを監督する団体−JASRACは著作料の配分をきちんと行っているか。
使用された著作権に対して見合うだけの著作料が支払われているか。
答えはNOなのである。
JASRACは会員に対して金を支払う際に、どの音楽が、どれだけの頻度で使われたのでこの金額という事で支払ってるのではない。
「過去の実績」とか、そう言うどんぶり勘定で支払われている。
また、徴収に関しても数百万円単位での漏れがあったり、そしてそれらのデータは書類で記載されているために調査に時間が掛かるという優れもの。
最近、パチスロ「吉宗」のBGMが色んな所で使われているのを耳にするけれど、恐らくその使用料は、頻度に比べ殆ど支払われないだろう。
支出に対しては曖昧ながら、収入に関しては猛烈な嗅覚を発揮。
これが著作権ビジネスの現状。
また、著作者自身の意識の低さも指摘されている。
音楽で言えば、アーティストや事務所が著作料に関しては監督団体に一任し過ぎているという事だ。
しかし、それは結局、「監督団体がこうなのだと言えばそれに黙って従うしかない」と言う状況が起こしているものとも言える。



 その一方で、CCCDなんて云う消費者をナメた代物を販売したり、或いは海外で制作された邦楽CDを輸入出来なくさせようとか、頓珍漢な事をしている。
著作権の保護、と言うけれども、著作者からすればCDを安くして、多く売れれば金が入る訳だし。
制作コストの削減とか、流通コストの削減を以て純利益の増加に導く、と言う考え方はどうやら否定されるらしい。


 俺個人としても、著作の使用には相応の料金が支払われるべきであり、それこそがクリエイターの糧であると思っている。
そして、違法コピーなどの蔓延でそれが充分に行われないようであるのならば、行えるようにする事こそが最大の解決法ではないだろうか。
その上で、参考になるのはアメリカのApple社の「ITunesストア」というビジネスだろう。
これは所謂格安の音楽ダウンロード販売なのだが、一応著作権保護の音楽フォーマットを適用もしている。


 勿論、このItunesストアが違法ダウンロードを駆逐するかと問われたら、それはNOであるだろう。
しかし、格安の料金を支払って違法な事をしているという背徳感から逃れられるのであれば、そちらにシフトする人は多いだろうし、また、俺が提起したプロバイダ料金やPC、OS、記録メディアに対しての著作料金の徴収を組み合わせる事で、少なくとも現在のような、唯、指を銜えて眺めていると言う状況からは逃れられるのではないか。
そして、それら徴収した料金を適切に、公正に配分して行くという事で、現在監督団体が言われているようなキナ臭さを排除すると共に、アーティスト、それから一般の利用者に対しての著作権意識を少しずつでも変えて行けるのではないだろうか。


 最初に戻る訳なのだけれども肝心な点は3つあって。
1・著作権のありかた。
2・警察の職権濫用、ないしは法理論の問題。
3・憲法上の問題(特にTIPSを載せたホームページの管理人宅の家宅捜索に関して)。


 それぞれは独立していて、けれども絡み合っていて。
俺が特に重要だと思ってる点は2と3。
神経質なのかも知れないけれど、ナチスに抵抗したマルチン・ニーメラ牧師の言葉を思い出す。
共産党が弾圧された。私は共産党員ではないので黙っていた。
社会党が弾圧された。私は社会党員ではないので黙っていた。
組合や学校が閉鎖された。私は不安だったが、関係ないので黙っていた。
教会が弾圧された。私は牧師なので立ち上がった。そのときはもう遅かった」


 良いですか、肝心なのは著作権の事だけじゃあない、っつう事なんですよ。
分離出来ないけれども、でもなるべく独立させて考えるべき事。