寛容は不寛容に対して寛容であるべきか・寄せられたコメントを元に

 前回のコラムに寄せられたコメントが、なかなか良い事を突いてきたと思い、とてもじゃないがコメント欄に返答していてはスペースが足りないので一日分使って、考えてみた。
諸君も宜しかったら、考えてみて。
以下、コメント引用。

『「色々な考えをする人が居る」という考え方に一定の敬意と同意をしつつも、このことに関して2つの提案を。


 1.「色々な考えをする人が居ることを認めない」というのも一つの考え方である以上、それを否定し、非難するのはあなた自身が「色々な考えをする人が居る」ことを否定していることにつながりはしないか。このことは、「寛容は不寛容に対して寛容であるべきか」というテーゼと同様の重みを持っているように思われます。 


2. 構造主義が明らかにした成果、ないし「普遍主義は特殊主義の裏返しであり、双方は共謀関係にある」という酒井直樹の主張にもう一度耳を傾けましょう。
「理論」や「不可欠」といった普遍的価値の主張は、実は特殊を中心化し、普遍化しようとする試みでしかない可能性も十分に考えましょう。
かつ、その「自主的」と思っている自分の言葉(Mein Sprache)自体が、実は教育や社会により大きく影響されている事実に目を向けましょう。そうすれば、自己批判を含めた他社批判の元に建設的な議論が展開できるのではないでしょうか。』


まずは、良い題材となるコメントを頂けた事に感謝の意を表しつつ。


・1の指摘について
 思う侭を記してみたいと思います。
寛容は不寛容に対し寛容であるべきか、と言うテーゼ自体、パラドクスを抱えた代物であると思います。
そして、この自分自身の中にも、「なるべく数多の人の考えを尊重したい」と言う願望がある一方で、幾つかの思想を持つ人々、極論を承知で例えるならば、殺人や強姦などを積極的に肯定する思想を持つ人間などに対し、その存在すらを認めたがらない自分が居ます。
そうです、既に俺自身、「色々な考え方をする人が居る」事自体を否定しているのです。
ですから、この指摘は将に正鵠を得ていると言えるでしょう。


 しかし、同時に思うのは、総ての物事に対しこのような、極端に相反する事象ばかりなのかという事です。
確かに、突き詰めれば意見思想を異にする以上、相反するものとなります。
けれども、最初からそうして諦観し二極化してしまうよりは、まず、歩み寄りとして「理解しようと勤める」事こそが重要なのではないでしょうか。
現実として、寛容は不寛容に対し寛容に徹しきれない事実があります。
勿論、それは各個人のメンタリティにも作用されるものですし、事象そのものに左右されるものでもあります。


 インドのマハトマ・ガンジーは「非暴力」を以て支配に対抗しようとしました。
俺は、幾ら他人を容認したいと言っていても、そこまでする事は多分出来ないでしょう。理由無く殴られたりしたのなら、多分、1.1倍くらいにはして蹴り返す事だと思います。
けれども、多分その前に「どうして殴った」と問いただすとは思います。その問う行為こそ、「理解しようと勤める」事の出発点であるからです。その上で、寛容となれないのなら、俺は恐らく徹底的に不寛容となるでしょう。
しかしその事が相手総てに対しての不寛容となるかと言えば、それはまた別の話です。


 自分自身に存在する矛盾。その矛盾を無くす事は俺にはまだ出来ません。
それは俺の無力を表すものでもありますし、また、狭量さを示すものでもありましょう。
ですが、その矛盾をなるべく少なくしたいと思う事、実践して行く事は無駄ではないと思うのです。


・2について
どうもこれは俺個人に向けられているようなので、それに答える形として。


 なんで構造主義が唐突に出て来ているのか解らんけども。
ワシャ、一介の莫迦なスロプーですから、構造主義が明らかにした結果、などと言われても解らんです。
そもそも、何を明らかにしたのか。
構造主義と言ってもロラン・バルトやらレヴィ・ストロースやらミシェル・フーコーやら居るじゃないすか。
また、『「普遍主義は特殊主義の裏返しであり、双方は共謀関係にある」という酒井直樹の主張にもう一度耳を傾けましょう。』と言われても、酒井直樹って人の本読んでない以上傾けたくとも傾けられんわね。この主張自体には頷く所はあるけど。


 相手も当然知っているが如く話す。
それはとても危険で。ともすれば独善や自己完結に陥り、コミュニケーションを阻害する。
喩えて言うなら、「この人は色々な国の言葉に秀でてそうだから」と言う一方的な決めつけで、ウイグル語で話しかけて返答が得られず落胆したり見下したりするのがおかしな事であるのと同じように。
俺も偉そうに言えるかと言ったら多分、そんな事はないのだけど、それでも、相手や、それからこの画面の向こう側に居るであろう数多の人に対しての配慮を忘れてしまってはならないだろう。


 戻るけれども。
ワシャこの方一度も自分の言葉が他者に影響された事などない、など傲岸不遜な事は思った事ないですよ?
俺のみに止まらず、俺達は、何かを習う事によって蓄積し、そしてそれを改めて形としている。
題材は違うけれども、以前芸術に関して書いたのと、それは全く同義。
思想であろうが芸術であろうが、人間が生み出す殆どの物事は誰かのものをトレースして改めたものに過ぎない。
だから、何か一方的に「自主的な言葉」と決めつけられても、ねえ。
勿論、俺自身の意識に拠って言葉は紡がれていくもので、その行為自体は自主的なものではあるのだが。


 も一つ。
俺は少なくとも6/25の文章に於いては「理論」なんて言葉使ってないんですよ。「論理」なら使ってるけどね。
まあそもそも、主張という行為自体が自己の思想を認知させ普遍化させていく作業であると俺は思っているから、指摘自体は結果として間違ってはいないと思うけれども。
それでも、論理と理論とでは違うものであって、無いとは思うけれど、もし勘違いされていたのであれば何としてもそこは是正してもらわんと困る。
俺が重要だと説いたのは「論理によって導き出す」ことだからね。
あれ? それとも「論理に拠って導き出すべきだ」と言う理論の事を言ってるのかしらん。


 冒頭でも記したけれど、良い題材となるコメントを頂けた事を嬉しく思います。
俺のみならず、この日記というかコラムを訪れる人達に対しても、思索する良いきっかけとなったと思います。
まあ、高見から見下ろされたような御高説は正直、頂けないが。
それは単に、使われている言葉の問題か。専門的な言葉ではなく寧ろ、些細な言葉の端々に。