女子高生コンクリート殺人事件の犯人、再度逮捕さる事

 俺の真の心境はこの一言。
「元素に還れ」


 ただこれだけだと、俺がこの事件に対しどう思ってるか、などを知りたくて来ている人に申し訳無いので、書く。
予め、謝っておかねばならないのは、俺がこうして書く事によって、過去に似たような事に巻き込まれ負う必要の無い傷を今だ心に抱えている人達の、その古傷に触れてしまうかも知れない事です。
また、書く前から既に自分の中に怒りを禁じ得ず、独善に陥りそれが文面に表れる事で、読んで気分を害す人も居るかも知れない事です。
だとしたら、ごめんなさい。


 表題通り、あの事件でサブリーダー格と言われていた元少年−こんな言葉を使って曖昧にもしたくはないのだが−が、暴行容疑で逮捕された。あの事件の事を恐喝するネタに使っていたりもしたらしい。
>>ソースこれ。


 「あの事件」がどういう物だったかは書かない。
少年法についての議論が取り沙汰される原因となった事件であったから、まあここの読者層なら覚えている筈だし、調べれば幾らでも出てくるだろう。
何よりも、その残虐性と人間離れした想像力の無さを俺が書かなければならん事自体に嫌悪感すら覚える事件であったからだ。
犯罪被害者と人権についてを考えていた際に裁判記録を読んだ事があるが、それだけで文字通り反吐が出る思いだった。


 逮捕され堀の中で「反省し」刑期を終えた男が、それを脅しのネタに使う。
その反省が単なるポーズであった事を、どうして10年近くも見抜けなかったのかが先ず疑問である。
また、そのポーズが周到に、狡猾に行われて居たと仮定するならば、結局は更正等というものは時間と金を浪費するに過ぎず、所詮は「莫迦は死ななきゃ治らない」事を明示したのではないだろうが。


 勿論、人は再生する能力を持っている。
罪を犯したとて、その罪を購う事で過去の自分を捨て、罪を犯さないように生きる事は可能である。
それは何も犯罪者という大きな枠だけの話ではなく、俺達が日々行ってしまうような、小さな罪そのものにも言える事だ。
俺は、何度であろうとも人は生まれ変われると言う可能性、更正によって変わる可能性自体を肯定する。
それは断じて疑わない。
しかしこの犯罪者は購う事、生まれ変わる事を拒否し、のうのうと日常に入り込み再度罪を重ねていた。
そこまで行くと、俺には莫迦と言うしか無い。


 どうすれば、このような生物が生成されるのだろうか。
裁判記録を半ば嫌々ながら再度読み、あの生物たちの環境を見てみた。
どの生物にも言えるのは、まず家庭環境に問題があった事であるだろう。
重要な点は、例えば片親であったとかそう言う事ではなく、両親揃っていながら放任され満足な愛情を与えられて居なかった事や、親が愛情と思っていても、それは単に親自身のエゴであった事である。
この生物の親は、どこか子供を親の言いなりになるべき人形という様な感じで接し、一人の人間として真剣に向き合う事をしていなかったのではないか、と言う印象を受ける。


 次に言えるのは、生物たちの環境そのものについてだろう。
丁度時代的には偏差値教育真っ盛りの時で、早期にドロップアウトしてしまうと学校からも拒否され最早救いの手は無く、後は堕落への道を墜ちるばかりであった事。
そうして家庭にも学校という社会にも行き場の無い者達が集い、更に加速度的に環境を悪化させていた事は想像に難くない。
既にその頃には親も監督する事も出来ない状態であっただろう。


 初期に於ける躾、教育の不全と、思春期に於ける環境。この積み重ねがあのような生物を生成するに至ったものではないか。
たとえ親の躾、教育が成功していても、後の環境如何に拠っては変わる事も有り得る為に親の所為とばかりも言えないし、だからと言って学校にばかり責任を押しつけるのも筋が違う。
だからもし仮に、あのような生物を生成しないように本気で勤めるとしたら、孟母三遷の教え*1を行う気構えが必要になるのかも知れない。
まあ、まず何よりも大事である事は子供を一人の人間として見なす事であるとは思うが。


 いつの世代でも少年犯罪の類は一定数存在する。
それは残念ながら、親や俺達大人の無責任が誘発する事である。
では、大人が総て悪いのか、と言うとそれも疑わしい。
確かに、子供が育成していく10数年近くの間に受ける大きな影響は大人によるものであるだろう。
しかし、罪を犯すのはその本人である。その罪と、如何に本人とを向き合わせるか。
罪の意識が希薄であるのならば、如何にして罪を罪と解らせるか。
そこが鍵となるのではないだろうか。


 て、また長く成った上にまとまらない。
教育論に終始してしまった。
本来この問題は、法的な側面、教育学的な側面、心理学的な側面などがあって、それらが密接に絡んでいるからこそ面倒な問題ではあり、そして長くもなる事なのだが、その総てを考察しきれて居ない。
ちょっと口惜しいものがある。
それと、やっぱり声を大にして言いたいのは「元素に還れ。」
偽善と誹られようが、独善と言われようが、矛盾していると指摘されようが、この怒りの感情がどうにも渦巻いて仕方がない。

*1:孟子の母が、最初は墓所の近くにあった住居を、次に市場の近くに、さらに学校の近くにと三度遷(うつ)しかえて、孟子の教育のために良い環境を得ようとはかった故事。−広辞苑第五版