北京オリンピックとナショナリズム

 始まりましたな、アテネオリンピック
早速、昨夜は日本代表のサッカーの試合をウキウキしながら見たのだけども、前途多難だと思った。
あれ、少なくとも2失点は無駄だったね。ディフェンスの粗忽な脆さ、動揺が目に付いた。
それに対しパラグアイはしっかりとボール運びしていたし、格の違いを思い知らされた感じ。
でも小野が最初のゴールをPKとはいえ決めたのは、何だか嬉しかった。


 ちょうど、五輪開幕の直前だっただろうか、さるTV番組でアテネの町の様子を映していた。
町のあちこちに、グラフィティと言われる落書きがされていて、その内容はアメリカの批判など政治的なものも多かった。
また、町の人々も、アメリカと言う国家に対して或る程度の嫌悪感を抱きながらも、選手や、観光客に対しては歓迎するような事を笑顔で語っていて、「あれはあれ、これはこれ」と言う考え方の徹底を見た。


 その様子を見ていて、ふと過日あったサッカーアジアカップ決勝の様子を思い出した。
ニュースなどで既にあの模様を見た人も多いと思われるが、世界的なスポーツの場に於いて、反日感情に根ざした暴動が起きた時の様子を、だ。


 今ギリシャで行われているオリンピックが成功に終わるかどうかはまだ、わからない。
しかし、次は北京で行われるオリンピックのいわば演習の様な大会であったアジアカップに於いて、あのような体たらくを晒した中国に対する信頼、また、北京五輪で中国に負けたら何されるか分からないと言う不信感、そして中国の人々がギリシャの人々の様に「あれはあれ、これはこれ」と割り切って考えられるかどうか。
そう言った様々な有り得る問題を思った。


 人間の考え方というものには、どうしても民族的、国家的、地理的側面などが反映されるものだ。
ギリシャが、デモクラシーの語源の地である事と、「考え方の徹底」には相関関係がある事だろうし、それを別の国や民族に強引に押しつけるのも問題ではある。
中国には中国の考え方が脈々と息づいて居るだろうし。
ただ、やはりあのような出来事はあってはならんだろう。


 サッカーワールドカップなり、オリンピックなりというものは形を変えた戦争である。
国威掲揚にも使われるし、愛国心を鼓舞する為にも使われる。
試合という戦争で負けたならば、別の機会にある試合でその仇を討つ、それがルールだ。
けれども、何か俺の中には、あのアジアの大国が、試合に負けたからと言う理由や、試合結果とはまた別の感情によって、スポーツの試合とは違う土俵−それこそこの間の暴動のような形−で敵討ちをしそうな、厭な予感がする。
そして、そう言った別の土俵に移された感情的な対立は、スポーツなどとは最早無縁の憎悪の抱き合いへと転じるおそれがある。


 ナショナリズムはその性質上、何処かの国と対比し優劣を付けたり、或いは敵視する構造に陥りやすい。
それは、差別が発生する構造と似ているだろう。
また、一部で指摘されていたが、あの中国の場合に於いては、経済格差などの人民の根底にある不安や苛立ちなどが形を変えスライドし、日本憎しと言う形になって吹き出したケースであるようだ。
ま、一言で言えばルサンチマン*1
それは今、ドイツが頭を抱えているネオナチの問題や、日本国内でも侭、見られる問題でもある。


 今から北京五輪の話をするのも何だが、北京五輪の成功は、ひょっとしたらその人民の抱えるルサンチマンをどう昇華させていくかに左右されるものなのかも知れない。
そして、五輪だけの問題には止まらず、この日本に於いても多々存在する、ルサンチマンを根底とした愛国主義へのシフトを如何に防いで行くか、国家百年を見通し、真に国を愛すと言う愛国主義ではなく、偽りの愛国主義(と言っても、恐らく本人は自覚さえしないだろうが)にどう立ち向かって行くかが、国際協調の鍵になるのではないかと思った。


 ま、個人的には中国人嫌いなんですがね。
五月蠅いし、マナー悪いし、金の匂いに敏感ですぐハイエナするし。
でもそれは個人の感情であって、それを拡大解釈したり何かにスライドさせ大義名分を得ようとしたりしては、いかんよな。
自分自身に対しての忠告をしたためつ、筆を置く。

*1:現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のこと。『ルサンチマンの哲学』永井均著、河出書房新社を参照