宅間守の死刑執行に思う

 大阪教育大付属池田小学校で多数の児童を殺傷した罪で拘束されていた宅間守の死刑が執行された。
あまりにも早すぎて、俺は最初執行ではなく、高裁で死刑判決が出たのかとばっかり思っていたが、そう言えば、大阪地裁で出た私見判決を控訴しなかった筈、と思い出し漸く、飲み込めた。


 いやね、本音で言えばとっとと死んで欲しかったんですよ。無駄に酸素吸って欲しくないもの。
だから、死刑執行というシステムの如何は兎も角、個人的にはあれが元素に還った事自体は評価したい。
しかし、尚も俺の中にはある疑問が残っている。
どうすれば、あのような生物が生成されるのであろうか。


 あれを一言で表すとしたら、ルサンチマンの塊という言葉だろう。
常に何か不満を抱え、そしてその不満を解消する手だてを何一つ講じず、誰か、何かの所為にしてそれに恨みや怒りを募らせる。
責任と言う言葉は己に向けられる事はなく、絶えず他者に向ける。


 そもそも、我々の行う事総ては、自分自身に責任がある。
どんな厭な事になったとしても、そうなる事を選択した自分自身の責任というものは絶えず付きまとっていて、誰かが100%悪いなんて事は殆ど無い。
それが行き過ぎれば内省的と成り、これまたちょっと問題ではあるけれども。


 何かの所為にするのはとても楽な事で、だからこそ人は安易に責任を何か他になすりつけてしまいがちだけれど、宅間という生物に関してはそれが度を超えていた印象を否めない。
あのように人格が形成されていったのは何の影響に拠るものだったのだろうか。
親の教育、躾というものは勿論否定出来ないが、環境一般ではどのようなものだったのだろうか。


 挫折する事でコンプレックスやルサンチマンを得る物だという考えが一般的だ。
その挫折が多ければ多い程、得るコンプレックスやルサンチマンも増えて行き、同時に諦観なども芽生える物である。
だが、その一方で挫折する事で得る強さもある。失敗を乗り越えようとする意思はそこから始まるものである。
本気で頑張って挫折した後は暫く立ち直れないものだけれど、それが糧と成る事は非常に多い。
しかし、あの生物はそれが見受けられない。それは、あの生物が本当に挫折し、それによってコンプレックスやルサンチマンを得ていたのかという疑問にも繋がる。
私見ではあるが恐らく、あれは本気で頑張って障碍を乗り越えようとしたことは無いのではないか。
適当に何か頑張ったふりをして、良い結果が得られなくて、挫折したような気になっていたのではないだろうか。


 そして、本当に頑張れば何とかなったかも知れないにも関わらず、その、敢えて言うなら偽物の挫折感からコンプレックスを抱き、憎悪を他者に向け、人を殺すに至る。
無論、どんなに頑張ったって駄目なものは駄目だし、頑張れば何とかなるなんて幻想を俺は言わない。
けれども、やってみなければ始まらない。サイコロを振って1が出るか6が出るかは分からないが、振らなければそもそも、目は出ない。
にも関わらずあの生物は、賽を振った気になって、しかも一方的に悪い結果が出たとばかり思っていたのではないか。


 また、資料を読み込んでいくと何度も精神病院に通院していた記述があるが、彼は精神病ではない。
弁護側も心神耗弱の線で減刑を狙っていた様だが、それは退けられている。
「精神病」という言葉には、色々とネガティブなイメージが付きまとい、そして図らずもあの生物がしでかした事はそのイメージを更に悪く印象づけるものとなってしまったが、「精神病患者ではない男の戯れ事」をさも、精神病患者は怖いものだというイメージとして受け取るのは大きな問題がある。*1
精神の病はデリケートな問題であるし、外見上で問題がすぐに分かると言う様な代物でもない。だからこそ、不安を抱き、時には恐怖の対象となる病だ。
それを、あの生物が逆手にとって、或いは自分がこのような境遇なのは精神病だからだ、と言い訳するために通院したりしていた可能性は充分にある。
肝心な点は、「精神科に通院していた」という事実、経歴ではない。そんなものは風邪を引いて内科に通ったり、虫歯で歯医者に行くのと同じ様なものでしかない。
「精神科に通っていたから、あんなことしてもおかしくない」と思う俺達自身の意識の低レベルさが問題である。


 色々考えてみたが、理解するには至らない。
そもそも、同じ人間として理解すると言う意志が、あの生物に対しては端から存在しては居ないのだが、あれも、そして俺も、この文章を読んでいる諸君も、同じ人間である事実は変わらない。
だとすれば、読者諸君や俺と、あれとを決定的に違わせているものは何なのか。
或いは、人間がああならずに済むものは何か。
なかなか答えが出るものでは無いが、気になるものは仕方ない。


追記 俺は、死刑になって溜飲が下がる一方で、ああ早くも死刑に処すべきでは無かったのではないかと思っている。
それは死刑廃止だとか人権問題とかと言う事とは無関係に、あれが人々に与えた苦痛の幾漠かは、敢えて死刑にせず生き長らえさせる事で与えるべきではなかったか、と言う観点に基づくものである。

*1:丁度今、「ブラックジャックによろしく」では精神医療篇をやっていて、この辺りの事は記述されると思うので単行本が出たら各人ご参考あれ。