香田証生氏の事などを再度考えていた

 バグダットで遺体が見つかってから暫し、香田証生氏の事などを考えていた。
その漠然としたものを綴る。


 確かに彼は無知で浅慮だったかも知れない。
無知は罪である、と俺は何時だったか語ったような気がするが、さりとて死に能う罪かと言えば、決してそうでは無いだろう。
もとより彼は若い。若いからこそ無知であり浅慮であるとも言える。
いい歳して分別を弁えた大人が揶揄する程の事では無いのでは無いか。
ひょっとしたらその「いい大人」も、時間軸が違っていたら同じ様な事をしていた可能性は否定は出来ない。


 また、彼がその浅慮故に危険地帯であるイラクに行き、その果てに殺された事はフォロー出来ない。
けれど、それは彼が異常だったという事ではない。
異常だったのは「外国人を危険だから泊められない」「累計で150人余りもの外国人が誘拐されている」「軍人でも政治家でもない、ごく普通の一般人を殺す事で世界を変えられると思っている人間達がいる」、そう言う現実こそが異常なのであって、ではその異常な現実を作り出したものは何か、と言うと難癖付けて押し入った英米
そして現時点でのイラクの混乱も、アメリカの強行な姿勢と占領政策の失敗が齎している所は大きい。


 前回では偉そうな御託を書いたけれども、現状認識の甘さ、及び想像力の欠如というものは俺にも確実に作用していたようだ。
顔を見る限り何処にでも居そうな、ひょっとしたら俺の隣でスロでも打ってたかも知れないような兄ちゃんが、捕まって「すいませんでした」と詫び、その僅か後に何の躊躇いも無く、塵芥のように殺されて仕舞うという現実。
彼がバグダット市内で最後に目撃された所から、3km−そう、渋谷から代々木あたり程度の距離−しかない所に打ち捨てられ野晒しにされていた距離感。
こういった事が恒常的に起こる日常の無情。
そしてそれらの事が淡々と「イラクで人質が殺されました」「戦争が始まりました」など精々十数秒ほど報道され、それだけで知った気になっている。それが何を意味するのか、どういう事なのかを知らぬままに。


 こんな事考えてたら、ニュースで彼が殺害された模様をネットで流している、と報道していた。
ソースは>>こちら。
なんだか余計に哀しくなった。遺族や、知人友人はどんな気持ちになるだろう。新潟の地震の時も、被災して体育館などに逃げ込んでる人達を無遠慮に撮るカメラマンに憤りを感じたが、更に酷い。
多分、今頃は悪趣味な覗き的好奇心から件のサイトなりに大勢がアクセスしているのだろう。その事もまた、何とも形容し難い寂しさがある。
その割に各メディアでの報道は大人しいのに些か疑問も浮かぶが。


 核家族化などの影響で死−特に身近な人の死−が現実味を帯びなくなった。年代が若ければ若い程それは顕著となるだろう。
いや、死を言うものに携わった事があったとしても、それは遠い日の記憶であったり、或いは棺に納められ、荼毘に付される所に携わる程度のものでしか無いのが大半だろう。
だから、死に対する好奇心としてそう言った類の画像に見入ったり、軽々に死を口にしたりするのではないだろうか。
だが、結局はそれは「画像」であって体で感じる程の物では無いと思うのだが。


 なんだか上手く纏める事が出来ん。
ただ、偽善だの何だの言われたとて、戦争をはじめとする、謂われ無き人が殺されるようなFuckな事が止んでくれたら良いのにとは思う。
例え、それが叶わぬ夢のようなものであったとしても、そう思うんだ。


追記 改めて香田証生氏の冥福と、せめてもの安らかなる眠りを祈ります。


併記 マッチ擦る 束の間海に霧深し 身捨つる程の祖国はありや−寺山修司