単発バイト、初めての依頼

  初めての依頼は、スーツを着用し私立の中学校に合格した生徒の説明会にやってくる父母に対し、進研ゼミの通信講座のパンフを配布すると言う物だった。
当日は派遣されるアルバイトというスタンスでは無く、ベネッセの社員として立ち回って欲しいと言う事だ。
ならば、クライアントはベネッセなのかと言えば、違う。
ベネッセから委託された業者が更に派遣屋に委託して人を集めているのだ。当然、中間マージンもそれだけ掠められて居る事になる。
短時間で比較的給与も良いし、割は良いと思ったが、本来はもっと良い値段であるだろう事は、正直無駄に思えてならない。


 俺の他のメンツは一人。どうやら女の子らしい。
それ以外に責任者だとか、そう言う人はいないのかと問えば、後でクライアントの人が見回りに来るかも知れないけど、多分来ないと言われる。
つう事は。俺が責任者ですな。初めて登録して、初めて仕事する人間が責任者。リハビリにはきついぜ、と思うと同時に、この口入れ屋のいい加減さを改めて認識する。


 当日は急激に気温が低下し、夜から降り続いた雪がまだ地面に残っていた。
待ち合わせの駅−ここは俺が高校通学に使っていた駅だった。だからこそこの仕事に応募したのだが−に早めに到着し、懐かしさを感じつつ煙草に火を点けて相棒を待つ。何本目かの煙草に火を点した直後、携帯が鳴る。一応、駅の出口すべてが見通せる所で待っていたので、誰が携帯を使っているかは分かる。早足でその人の所へと赴いて確認をし、会社へと連絡をして本日の任務は開始された。


 配布するパンフレットは時間指定の宅配便で直に学校前に送りつけられる。
それを受け取り、雪や雨が掛からない木陰に移動させて、今日の任務の確認をする。
箱は5つ。大凡一箱50冊といった所だろう。
事前説明では平均が配布率50%。しかしそれでは少ないので70%を目処に頑張って欲しい。70%配るまでは残業してもらう、との事だった。
と、言う事は単純計算して、前半で40%を越えないと厳しいだろう。その事を自覚して貰う為に、相棒の女の子にフレンドリーに飴玉を勧めつつ、「前半で5割越えられるよう頑張ろうね」とハッパを掛ける。


 どうやら、説明会の開始時刻は結構遅めだったようで、待てど暮らせど一向にそれらしき人たちは現れない。
その間、他愛も無い話をしつつ時間を潰す。どうやら、相棒も大学を出て仕事に就けなかったらしい。徒にプライベートにまでは踏み込む野暮はしないが、理系で院には行かなかったから、と言っていた。食品関係に居る友人の話などを出したら、「私も食品受けたんだけどダメでした」と少し羨ましがっていた。
正直、俺以外にも俺のような奴が居るんだ、という事に安堵と言うか、共感のようなものを感じた。


 9時頃になり、漸く最初の「客」が現れた。
いかにも教育熱心と言うオーラを全身から出して居り、こちらが渡すパンフもすんなりと受け取って貰えた。
やがて、次第に「客」の数は増え、愈々本質的な任務の開始。
相棒の声が小さいのでその分、俺が声を出し、注意を引きつける。「おはようございます!ご入学おめでとうございます」と言った時点で9割方こちらを向く。こちらと目があったらもう、貰ったような物だった。そのまま目を見つつ、笑顔を浮かべ、敢えて少し腰を落としたりして視線を相手と同じ位置にまで下げ、「中高一貫校専用の通信講座のご案内です、宜しければご検討下さい」と相手に向きを合わせパンフを差し出す。
親が受け取らなくとも、子供に「どうぞ」と言って渡す。


 人間心理として、前に居る人間が受け取ると、後ろの人間もあまり抵抗感を持たずすんなりと受け取るらしい。
その事に気が付いてから、相棒を俺の斜め後ろに立たせ、俺が渡しそびれた客に集中して渡すようにした。
そうすると、前から来ている客達は学校に入る人の殆どがパンフを受け取っているように見え、また、俺達にしても一度渡した人に渡すなどと言う二度手間を省ける。
開催時間が迫っているのだろう。人がかたまりのようになってやって来る。
この期を逃す訳には行かん。パンフが無くなったら段ボールの蓋を殴って開け、僅かなロスも無いようにして配る。
10時頃になって途端に客足は遠のき、また平穏が訪れた。
いくつ配ったか、などとカウントしていなかったが、箱を見るとすでに4箱が空になっていた。
何だ、もうノルマクリアしてるじゃん。このまま適当に時間を潰して帰っても良いのだが、帰る人に残り一箱配ってしまえば良いだけなので、会社に電話して別の校門に移動する旨を伝える。
そちらには駐車場があり、車で訪れた人たちが多い。絶対数は少ないものの今まで居た所と客層は被らない。勝負は貰った。


 移動許可を得、説明会が終わるまでの間に移動しつつ、物陰に隠れてコーヒーを飲んだり煙草を吸ったりお菓子を勧めたりなどして暫し、サボる。
晴れた日ならのどかに談笑でも出来ただろうが、雪の後だけあってベンチに座る事も出来ず、時折吹き付ける強い寒風に当たらないよう相棒を物陰に潜ませたりなどしていると、なんだかPS2「サイレン」とか「メタルギアソリッド」でもやってるような錯覚に陥る。


 小一時間ほどして、学校の方に人影を確認すると、最後の任務を開始。
とはいえ、たかだか段ボール一箱なので早い。しかも言わば手つかずの漁場。あっと言う間に捌いて配布率100%を達成し任務完了。
途中、色々と説明を要求されたがそこはハッタリと普段の偉そうな態度でカバー。
時間を見れば、まだ終了予定よりも1時間ほどある。配る物も無いので会社に「全部配り終えました」と連絡を入れると物凄く驚かれながら帰還命令。綱島に赴く。
よく考えると、俺の家からこの現場までの交通費は殆ど掛かっていない(相棒も横浜市民だから同様)から交通費は丸儲けかと思ったが、会社までの交通費がやたらかかる上に、それは補助されない。結局行くだけ損なのだが、業務報告書と言うものと引き替えに給料が支払われるから行くしかない。FAXで送信して振り込みにしてくれたらまだ楽なのに。


 馬鹿正直にすぐ帰るのも厭なので、暖を取るためにドトールで珈琲を一杯飲んでから綱島に戻った所、丁度他の現場に行っていた人たちと合流する事になった。
彼らと一緒に報告書を記入していると、どうも100%を達成したのは俺達だけらしく、他は大体6割前後であった。
「俺すごいだろ」なんて自慢するほど自惚れてる訳では無い。ただ、何故そこまで低いのかは疑問であった。どうしたらそこまで配れない物なのだろうか、と。
俺の赴任地が特殊であったとは考えがたいし、俺が何か特別な事をしていたとも考えがたい。
にも関わらず、それだけの差が出た要因は一体、何だろうか。僅かばかりの金を貰い、その事を考えながら帰途に着いた。


 ま、約4年ぶりの労働にしては上出来だろう。
…そうだよ、俺は大学出てからこの方一度も働きなどしてなかったんだ。
何よりもこの事実こそが驚愕だ。