任務:ドライビングシミュレーターをテストせよ

 今回の任務は、「ドライビングシミュレーターのテスト要員」である。
前回も少し書いたが、1週間近い期間を募集していて、その間フルに入れば短時間で良い稼ぎにはなると判断したのだが、実際にはその性質上一回だけしか出来ない、と言われていた。
ドライビングシミュレーター、と言うと、どうしてもゲームのようなものを想像してしまい、また募集要項にもそのような感じで書いてあった。だから、日吉近辺にある某ゲーム会社(余談だがそこには俺の友人が働いており、今度話す時に良いネタになるかも知れないと思っていた)のテスターとばかり思っていた。
だが、実際は慶応の理工で開発されている某システムのテスターであったのだ。
具体的には、カーナビなどから得られる情報に対する人間の行動を調査する物である。


 時間通りに日吉に到着し、慶応の校舎の中を進む。
大学受験の時に一度だけ訪れた事があったけれど、その時とは随分と違う様相を呈して居り、校舎も何だか綺麗になっている。
日吉校舎は文系で、そこを抜けた所に理系の校舎がある。その校舎もまた小綺麗で、理系と言うイメージとはほど遠く、ホテルのような建物だ。床は絨毯が敷き詰められ、照明も無機質な蛍光灯ではなく柔らかな光を発する照明。
その、エントランスの所で待ち合わせだったので待っていると、ラフな格好をした学生−とは言っても幼さを残したような学生では無く、恐らく20代後半であるだろう学生−が挨拶をし、此方に向かってきた。
此方も挨拶を交わし、研究室へと導かれる。


 研究室の中は広く、着ていたレザーのジャケットを掛けると、更に隣室に導かれた。
そこは20畳はあろうほぼ円形の部屋で、真ん中に一台の車を丸ごと改造したシミュレータが置かれて居り、周りは黒の暗幕、そしてスクリーンで囲ってある。
車の下には黒い大きな台座があり、運転席まで階段が付いている。また、車からは何本ものケーブルが出ており、その幾つかは数台あるPCに直結されている。
早速、乗り込み注意事項を確認する。
まず、変にゲーム感覚で運転するのではなく、実際に運転しているのと同じ行動を取るように言われた。
車間距離や右左折、合流するタイミングなどもいつも通りにして欲しいそうだ。
また、時折酔ってしまう人もいるらしく、もし何かあったら直ぐに中止するから、と告げられる。


 まずは、軽いテスト走行として、決められた所まで走る。同時に、道を覚えるよう指示される。
このシミュレータは首都高を模しており、芝浦あたりからスタートして目的地は目黒や新宿、池袋方面。
最近のゲームと比べるとテクスチャは甘いものの、それでもなかなか良く描けている。
「では起動します」と言う合図と共に、台座に乗せられた車が持ち上がる。お、ちょっと格好良いかも。
エンジンを掛け、走らせるとそれに併せて車も傾いたりする。昔あった、アウトランギャラクシーフォースなどのセガ体感ゲームを思い出す。
あれが画面一枚なのに対し、こちらは本当に見渡せるのが大きな違い。


 少し走らせて居ると「酔う」と言われた理由が分かった。
ハンドル感覚や実車感はリアルなのだが、体にかかるG、特に横のGが足りない。だから違和感を覚える。体が「?」と問うている。
ふむ、と思いつつ進めていると、徐に自分の車に重なって走り去っていった車があった。
「ま、ゲームとかじゃないからね」と、てっきりバグかと思っていたが、「そういう乱暴な運転をする車も有りますから、ちゃんと避けてくださいね」と軽くお叱り。
そう、急激に車線を変更したり煽る車が居た際に、どういう行動を取るのかと言う事もサンプルとして取られるのだ。
ああ、なるほど、分かりましたと頷き、幾つかあるゴールまで辿り着いて、いざ本番。


 本番では左目にスキャナを装備する。スキャナと言ってもZIPPOライター程の大きさで、本体は頭に巻く形。それで目の動きをキャプチャする。視線の位置のスキャンをして座標を設定し、OK。
また、頭の上には小さなビデオカメラを設置。だから結構頭が重くなる。ま、激しく動いたりする訳ではないから大丈夫だけど。
では、本番と参りましょう。


 さっきのテスト走行の時と同じコースを走るが、今回は基本的にナビゲートされない。
カーナビを見つつ目的地まで走るのだ。
先ほどは変な車にぶつけられたけど、今回はそれをやり過ごしたり、或いは加速して逃げたりとほぼ実車通りに。
暫く走らせて居ると、八重洲あたりのトンネル内でカーナビから妙な音と、見慣れない画面が。
「?」と思いちらりと見ると、「カーブ内停止車あり」との表示。
減速して様子見していた所、車線を塞ぐ形で事故車両が。てっきり路肩に停止させているものだと思っていたから驚きはしたが、速度を落としていた所為で上手く避ける事は出来、難は逃れた。
暫し走らせてゴール。


 すると、まずそこでアンケート。うろ覚えなので全問ここには書けないが。
カーナビから表示された文字は何だったか。
その内容は(自分にとって)正しいと思えたか。
もし違うなら、何が違うと思ったか。
その情報の差異によって憤りを感じたか、等という物だった。
つまり、カーナビから表示された情報−カーブ内停止車あり−という情報を人がどう受け取るか、また俺の思っていた情報−車は路肩に止まってるだろうと言う想定−との違いによって、人はどういう感情を持ったり、或いは行動に出るか。
そう言ったものをサンプリングするのだ。


 なるほど、と一人うなずきつつ、テストを重ねる。計4回測定する内、カーナビに表示されてから随分と経った後で車が止まっていたり、或いはなにも止まっていなかったり、事故車両あり、と表示されたりなどを経て、それらに対し先程の様なアンケートに答える。
推察するに、国土交通省あたりとの共同研究で、カーナビに事故情報などを送信し利用者に注意を促す為のシステムを構築するのだろう。その、情報を送信する種類やタイミングによっては新たな事故を起こしてしまいかねない。
例えば最初に、俺が停止車だと思っていたものが実は事故車だった、などと言う様に。そして、俺が減速していたからこそ難を逃れたが、中には「何だ、停止車かよ」と普通に走り抜けようとする人もいるかも知れない。
遍く人たちに効果のある情報を提供するにはどうすべきか。それが恐らくメインになるはずだ。


 実験を終え、業務終了報告を書いて貰う。
その間に、室内に張ってある研究報告のポスターらしきものを見ると、横断歩道で光を出した場合、運転者はどう注視するか、などの研究の成果が記されていた。
光の色や光らせる場所などでも様々な違いがあって、非常に興味深いものだった。
ぼそっと「行動心理とかも絡んでるんだなあ」と呟いたら、それを聞いていた担当の学生が「ええ、行動心理とか、認知心理も絡んできます」などとノリノリで話しかけてきた。
あまり専門では無いけれど、僅かな知識だけはあるし興味があるので話を聞いていたら、結構長くなってしまいそうだったので適度に切り上げさせて貰い、礼を述べてその場を後にした。


 本来、こういった場で礼を述べるべきではないだろう。俺は一介の傭われた労働者に過ぎん。
けれど、非常に興味深い世界を覗く事が出来た。その事に対し、礼を述べずには居られなかった。
何事にせよ、物事を研究していくのは非常に骨が折れるものだけれども、願わくばこういうものに携わりたいと思った。
ま、分野が違うといったらそれまでなんだけどさ。けれど、頭を使って仕事する、ってのは羨ましい。どんなことでも頭を使う、と言ったら確かにそうだけれども。