任務:ティッシュを3千個配布せよ−前編

 「馬車道でのお仕事なんですけど」
最近仕事が減ってきて危機感を早くも抱いていた先日、徐にこんな電話が来た。
内容はティッシュの配布。馬車道と言えばすぐ側だし、勝手知ったる所。交通費もさほど掛からないから即断。
話によると、どうやら3000個のティッシュを6時間かけて配布するらしい。
1時間あたり500個、1分あたり8から10個配るペース。休憩時間を除くともっとペースはきつめになるだろう故、流石にこれはノルマクリアは厳しいが、ともかくやってみる事にした。


 クライアントは写真屋さん。どうやら配る場所は店の前ではなくとも良く、ケースバイケースで対応していいとの事。
それは非常に助かる。人がいない所で突っ立ってても単に時間の無駄であるから。
早速、まだ通勤する人達が足を急ぐ最中、敢えて駅の前ではなくバスも通る大通りで配布を開始する。
理由は駅には既に大手金貸しなどが配布しており、その最中に更に参戦しても不利なだけだから。それよりも、人数は少し減ってしまうけれども、競争する他者がいない所でする方がより確実であると思ったからだ。


 俺の目論見は成功した、と思った。
しかし午前10時頃になると人通りは一気にまばらなものとなり、ペースは下がり、まだ一箱500個すら配れていない。
写真屋さんの宣伝という特徴上、あまり店舗から外れた所で配っても来てくれるかどうか分からない。うーん、どうしよ。
折悪くどんよりとしていた空から雨も落ち始めた。
取りあえず、地下鉄の駅前に移動して雨宿りしつつ配る事にしよう。ここなら地下鉄から降りてきた人にも対応出来るし、雨宿りする人にも配れる。作業効率自体は継続できる。


 ところが、この地下鉄の出入り口、ホームレスの人達が既に居住していて。
駅構内から吹き上げてくる風に乗って、アンモニアが腐ったような臭いが鼻をつく。
厭だな、と思いつつも、彼らの姿はひょっとしたら俺の、そしてこれを読んでいる誰かの将来の姿かも知れない事を考える。
最早、公務員でも無い限り安定と言う言葉は俺達からは喪われた。
二極化構造が進む中で、その下層部にいる人はもとより、上層部にいる人であってもあっと言う間に転落する可能性がある事は否定できない。
そして何よりも、現在の日本社会では何らかの理由で一度転落すると、復活再起が極めて困難であると言う構造上、ホームレスはこれから更に増えて行くのだろうし、そうでない人々も絶えず何かを恐れ下を俯いて歩く事になるのだろう。
ああ、そうはなりたくは無いしさせてはならない。
解決には雇用の拡大が急務であるけれども、それと共に企業に雇用時の限定を緩和させねば、この流れを変える事は出来ないだろう。
そんな事を考えつ、臭いと戦いつ配っていた。


 お昼頃になると、雨は上がり青空が見え始めた。
またランチに向かう会社員、観光や散策に出た人達などの姿も見え始め、やがてその数は一時の閑散とした時が嘘のように膨れあがった。
ご飯を食べた後に使うから、とわざわざ貰いに来る人達もいて、この波に乗った俺は午後1時の段階で総配布数は千個強。
更に、午後になってから最盛期ほどではないが、人通りが途切れる事もなくなり、常に一定のペースで配る事が出来ている。
ただそれでも、3000に到るには時間が足りない。
規定終了時刻の午後三時の段階で、総配布数は2000ちょうど。クライアントであるお店の人に「すみません、3000は行きませんでした」と詫びを入れると「いえ、明日もありますから」との返事。なんですと?


 取りあえず仕事の終了の報告を事務所に入れ、予定数には満たなかった事を告げると、「明日も空いてます?明日続きをして欲しいんですが」と。
手前、それを早く言え。
要は、2日で3000個配れば良く、穿った見方をすれば俺が3000を一日で配ったら、その空いた一日分の給料総取りする算段だったなと思えなくも無い。
ま、いずれにしても翌日分は残り1000個。今日の状況から見ても、どう転んでも確実に出来る。それに配り終えたら帰って良いとのお墨付きも頂いたし、今日は少し散歩でもしよう。


 実は関内や馬車道を訪れるのは久しぶりだ。
以前はこの界隈のスロ屋に足繁く通っていたし、馬車道の方はあまり訪れる用事も無かったけれど、こうして改めて散歩してみると、俺はこの街が決して嫌いでは無い事に気づく。
確かに一本裏に入れば胡散臭くて、猥雑なんだけど、古い建物も沢山残ってて、妙なのんびり感がある。
うろうろとスーツ姿で彷徨し、古い建物を見つけてはニヤニヤし、小綺麗なカフェや、または古臭い喫茶店を見つけては「今度来てみよう」と頭にインプット。
そのまま海まで出て、遠くをぼおっと眺めながら珈琲片手に煙草を喫う。
歩いたおかげで足は少し痛く、ベンチに座りながら足を揉んで居たけれど、でもこういうの、何となく良いな。