ルーヴル展、行ってきた

Wacrema2005-06-27

 「日々大変だからこそ美しいものに触れて己の魂を磨かねばならない。」
その思いは日々益々強くなる一方だったここ数日。漸く休日が出来たので行ってきたよ、横浜美術館のルーヴル展。
個人的嗜好の問題があるから、俺の評価が参考になるかは分からない。寧ろ、俺の嗜好は偏っているから参考にすらならないかも知れないだろう事をまず断っておく。


 さて、このルーヴル展、結論から言うと「微妙にハズレ」。
理由は二つ。一つは、俺が見たいと思ってた絵が無かった事。
ドラクロワ、コロー、アングルの作品は多めで見応えは確かにあったけど、レンブラントフェルメール、また印象派の作品も少し入れて欲しかったなと思う。まあ、サブタイトルが「19世紀フランス絵画 新古典主義からロマン主義へ」だからしょうがないと言えばしょうがないのだろうけど。やっぱり残念なものは残念である。
オルセー行け? それはごもっとも。


 そしてもう一つ、とても大事な点。
照明が鬱陶しかった。
絵がね、反射して見えなかったり、変に影になって暗くなってしまってたりして台無し。
不思議ったら不思議なんですよ。
素人じゃあるまいし、プロの学芸員達が計算してその光加減にした筈だろうけど、大きい絵だったりするともう全然見えなくて。
これは俺一人がそう思ってたのではなくて、他で見てる人達も色々と見る角度を変えては文句を言っていた。
俺はまだ本物のルーヴルには行った事が無いので、実際の展示はどのように行われているかは分からないけれど、恐らく行った事がある人なら違和感を感じるだろう。
それくらい、見づらいものだったのだ。


 絵を見る上で、光はとても重要な役割を果たす。
適切な明るさでなければ画面が暗く、肝心のものが浮かび上がって来なかったり、また眩しすぎて絵の明るさが死ぬ事もある。
だからその加減がとても難しいのは分かる。
けれど、反射して見えない、ってのは落第点だろう。照明に使う電灯の種類を変えるなり、または照らし方を変えるだけでも結果は変わった筈だ。


 この展示会に限って言えば、展示されている絵画の多くが歴史画や時事的絵画が多い。
だから、その歴史的背景を知らないとおもしろみが半減する。モチーフとなっているものを読み取れないのは妙に悔しいものがあった。
勿論、絵単体としての美しさは変わらないのだけれど、その背景を知っていれば格段に楽しみ方が変わる。
俺の無教養によってその楽しみを半減させてしまったのは、やっぱり悔しいし勿体ない。


 と、そんな感じのルーブルだったが、印象に残った作品をいくつか。


アングル「トルコ風呂」:チケットやパンフにも載っている、言わば今回の展覧会の目玉。
俺はチケットなどのデザイン上、丸くトリミングしてあるのかと思っていたが本当に丸い絵だったので驚いた。
描かれている内容がエロいのだが、丸いキャンバスはあたかも窓から覗いているような錯覚にさえ陥れさせられる。それがまたエロさを強く引きだしていると言えるだろう。


テオドール・ジェリコー「白馬の頭部」:題名通り馬の頭を描いたものなのだが、妙に笑いを誘う。
それは馬を唯の生物として描いている訳ではなく、どことなく人間的な様相を以て描いているからだろう。
「馬の肖像画」とも言い切れるこの作品を、数多の肖像画の中に潜ませておけば絶対ゲラゲラ笑う。
でもジェリコーなら「メデューズ号の筏」とかの方を見たかった。


テオドール・ジェリコー「賭博偏執狂」
テオドール・ジェリコー「アトリエの芸術家」:この二つは美しい、と言うよりは寧ろ、心を強く穿つ。
「賭博偏執狂」は題名通り、ある賭博狂いの老婦人を描いたもの。その虚ろな目をした老婦人は、パチンコ屋などで実際に見た事があるような人々の姿をそのまま描いている。
亦、「アトリエの芸術家」は貧しい芸術家(というよりはボヘミアン)の姿をそのまま描いている。そのいずれも、俺自身の見たくない姿そのものであるような、けれど目を背けてはならないようなものであった。


ウジェーヌ・ドラクロワ「母虎と戯れる子虎」:幾つかのドラクロワの作品の中で一番、目を引いた。でもドラクロワ持ってくるなら「民衆を導く自由の女神」を持ってきて欲しかった。


 最初に、俺は「微妙にハズレ」と書いた。
だが、この展覧会に行った事を後悔はしていない。
それは単に、自分自身の心のあり方を再定義出来たからに他ならない。冒頭や、或いは先日の日記にも記したように、忙しくなったりしてくるとつい、面倒がったりして絵を見なくなったり、本を読まなくなったり、音楽を聞かなくなったり−これは単に例えの話であって、映画であるとか、漫画であるとか、美しいもの、心打つものは数多ある−してしまう。
そしてその事に慣れてくると、ますます行くのが面倒になったりもする。
けれどやっぱり、そう言う最中にあってこそ自分自身の心を洗い、磨く意志というものが、何の役に立つかはわからないけれどとても大事なのでは無いかと強く思えて。


 他人に対して、絵を見てないからダメ、本を読まないからダメ、なんて野暮は言わない。
もとより俺がそんな事を言えた義理でもないし、また絵を見る事に興味のない人、本を読む事が苦手な人、様々な人がいるから。そう言う人達の存在を否定するような事は言えない。
ただ、やっぱり肝心なのは自身の在り方の問題なのだ。
はっきりと言えば、こんなものは自己満足以外の何物でも無いとは思うのだけれども、その一方で、俺達はその心を磨く意志と言うものを忘れてはならず、その意志の放棄こそが己を腐敗させて行くものである、と、妙に自信を持って言えるのだ。


追記:でも一番見て良かったと思った絵は、セザンヌの「セントヴィクトワール山」と佐伯祐三の絵。