感覚の鋭敏化

 今日、羽田での仕事中、妙にカメラ機材を沢山持った集団が多く、しかも何度も慌てるようにして搭乗口へと向かって行って居た。
彼らは全て、TV局の人たちで、一緒に働いて居た人は「誰か有名人でも居るんですかね?」とやや浮かれた様に言っていたが、どうもそう言った浮ついた感じは見て取れなかった。
また、それ以外にも作業着に気象庁内閣府の名前が入った人たち−内閣府仕様の作業着があること自体初めて知った−もバタバタと慌てて俺の目の前を通り過ぎたりなどしていて、欠航便が相次ぎ普段よりも閑散とした空港内で、彼らの姿は明らかに異質ではあった。
ただ、俺は空港の日常を知る程にはまだ勤務しておらず、漠然と「何かあったのかな」程度に捉えただけだった。


 家に帰ってニュースを見ていると、北海道で竜巻が発生し大きな被害を出したり、新潟では巨大なクレーンが横倒しになっていたり、ほぼ全国的に強風の被害が発生していたことを知った。
今から考えれば、マスコミの人たちや、内閣府気象庁の人たちはその取材、調査の為に全国に飛んだのだろう。


 のほほん、と、誰ぞ有名人でも居るんだろうか、等と俺も思っていたけれども、あの場違いな様にすら思える束の間の喧噪は、なるほど、意味があったんだ。
無論、仕事中に「何が起きているか」という詳細を知る術は基本的には無いけれども、「何かが起きている」という事は、観察をする事で窺い知れて居た。
少なくとも、「何だろう、妙だな」と思うことはあった。ただ、その後の想像力が全く足りていなかったし、データも無かった。


 ただもし、仮にその想像力と、経験などのデータがあるならば、もしまたそう言ったような「何かが起きている」と言う予感を得た時に、もっと具体的にその「何か」を推察する事は出来るかも知れない。
そして、その「何か」を推察する事自体が、ある種の危機察知能力や、危機回避能力に繋がるのではないか、と朧気ながら思った。


 普段からぬるま湯のような感覚で居ると、感覚そのものが麻痺してしまい、肝心な時に役立たなくなる。
感覚を喚起し、神経を鋭敏にさせるのは自分自身に他ならない。
場合に依っては、そこにある何かに気が付くかどうかで、生死を分けるような事も希にはある訳だから、鈍化した神経で居るよりは、研ぎ澄ました神経で居る方がナンボかマシだろう。


 で、神経を鋭敏にとか何とか言ってる俺ですがね。
休憩から戻る時にまた迷って、何故か、搭乗する前にレントゲン通す所にあるドアに。
急にドアを開けられ凍る空港スタッフと搭乗客、そして見知らぬ所に出て戸惑う俺。
いやあ、一瞬時が止まったね。