教育基本法改定の「愛国心」について

 初めての人もそうでない人もこんばんは、Wacremaです。
早速ですが、皆さんがこの日記を読むにあたって一つ、重要なルールを設けます。それに従えない人はこの日記を読むことも、また論ずる資格もありません。
で、そのルールですが。
「オマエら俺を愛しなさい。」
え? 愛し方が分からない?
簡単です。俺の言いなりになりなさい。俺を愛しているのならばそれは当然の責務です。
…我ながらタチの悪い、ヒモみたいな男が吐きそうな陳腐な台詞だと思うが、教育基本法改定の「愛国心」の条項ってのはこういう事なんではないのかな。


 始めに断って置くけれど、俺は日本という国を愛している。
以前にもこれは書いたが、何度か行ったアメリカと比べて−比較対象がアメリカだけってのが問題あると言えばあるが−、日本の風土、四季、言葉、歴史、文化、そう言った諸々のものを俺は日本に生まれ育った者として誇りに思うし、また、サッカーでは代表チームの試合で我が事の様に感情的になる。
自分では、自分自身の事を愛国者であると思っている。
その上で、教育基本法の「愛国心」の項を語ろうと思う。


 「愛国心を養う」という事は非常に重要な要素であると思っている。
愛国心」というと、言葉が大仰で畏まって考えてしまいがちだが、要は共同体への帰属意識の大きなものであって、それは構成する、そして所属する共同体に関わる密度によって変わる。
大雑把に見て、恐らく一番濃い帰属意識は「家族」或いは「恋人」という所で、ついで「学校」「会社」、「地域」、「国家」となるだろう。
個人というものは、共同体に帰属し、その中で他者と照らし合わせる事ではじめて、その個を確認する。
その個が集まる事で共同体が出来、存在する。個が共同体を作り、また共同体が個を写すのだ。
そして、その個としての役割を、個人も、それから共同体も双方が認める事ではじめてその構成員たり得る。
当然、その「役割」というものは接する密度によって変わってくるし、一義的に論ずる事は難しい。家族の中での役割と、会社や学校での役割が全く別であるように。
だが、一つ言えるのは、愛国心無くして日本という国家への帰属意識はならないだろう、と言う事だ。
「俺は日本国民だ」と堂々と言う為には愛国心は不可欠であり、そして逆に言えば、「日本国民じゃなくてもいいや」と言う人は別に愛国心を抱く必要もない。
人には思想、信条の自由があり、日本国憲法はそれを保証している。その事について、他人がとやかく言う事ではない。


 が、この教育基本法に書き連ねられた言葉には妙な齟齬感を感じる。
教育によって愛国心を抱かせよう、と言う言葉自体は立派だ。
だがそもそも。愛するって何さ?
愛なんてものは人によって持つ物差しが違い、明確に定義出来るようなものではない。
そして、それは自発的な感情、思想の発露であって、他者から押し付けられて「はい、わかりました」なんて出来るものじゃないし、仮に「出来る」などと言われても、寧ろその裏にある欺瞞的な臭いを嗅ぎ取ってしまう。
愛、と言うと一般的に人間同士の事を言うけれども、対象が人間ではない場合に於いても、それは同じ事だろう。
「愛車」などと言う時があるが、例えば、「じゃあこれからこの車を愛してください」などと言われて出来るものだろうか。
自分が気に入って、愛着を持ち大事に使って来て初めて「愛車」と呼びうるものになるのであって、逆に言えば幾ら大事に使おうと愛着を持っていなかったらそれは「愛車」というものではないだろう。


 上述したように、愛するとかってのは個人の自由。
愛情というのは個人の自発的な感情、思想と書いたけれども、じゃあ愛されてないからと言って半ば強引に「愛せよ」などとするのは自分勝手で他人が見えない莫迦のする事であって、個の尊厳を侵害するものですらある。
俺は別に権利権利と声高に叫ぶつもりは無いが、個の尊厳は憲法上でも保証されたものであるし、また、共同体、社会というものは個の尊厳なしに成立してはならないものだ。
それは、個の集合体が共同体であり社会である以上、個人(達)の意志が最終的に社会のあり方をも決定づける。
社会が個の尊厳を侵害する事は、その社会自体の存在を揺るがしかねない事でもあるのだ。


*註:但し、殊、日本特有の社会−言い換えれば世間−と言うもののあり方、構造は往々にして社会の構成員である個を潰す。
この21世紀に於いてもいまだに他者と同調し「和を以て尊しと為す」事が美徳とされ、個性的であること、特徴的であることは日本では異端者と見なされ、排除されやすい。
今、話題になっているいじめの問題に関しても、いじめられた側に「お前にも悪いところがある」とvictime blaming(被害者非難)をして要である加害者を断罪しないのにはこういう構造があるからだと思っている。
なおvictime blamingに関しては以前、いつだったかこの日記で書いたので検索して。


 また、こういった一方的な価値観の押し付け、植え付けは単一化された偏狭なものへとシフトしやすい。
条項には「郷土への愛」も書かれているが、例えば、今、財政破綻した夕張から離れる人が多いが、そう言う人たちをその背景すら語らずに非国民扱いするような風潮が出てもおかしくはない。
「日本人ならば郷土を愛し、骨を埋めるべきだ」と言う極端な思想が罷り通り、短慮に気安く非国民と言う言葉を量産し他者を排除しようとする風潮が出る事を危惧する。


 結論を言うと、教育に愛国心なんぞ盛り込む余計なお節介をする暇があるのならば、自発的に愛情を持てるような国造りを、「美しい国」等という漠然としたものではなく、明確な理由があって愛着を持たれるような国造りをとっととして欲しい。
更に言えば、日本は元々美しい国であって、それを薄汚くしているのは誰か。
バブルを忘れる事が出来ず、拝金主義に走り、弱い者を使い捨て、そしてそれを声高に正当化する。
儲けても還元するどころか更に絞り取ろうとし、誇るべき豊かな自然を不要な開発で壊し、そして採算が取れないと放置してしまうような事をしているのは誰か。
この、自発的に愛するどころか、寧ろ逆に愛想を尽かされるような現状を認識せず「愛国心」など語るのは図々しいにも程がある。


 最後に漱石の「我が輩は猫である」の中に、偶然面白いフレーズを見つけたので記しておく。
大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳(せき)をした。
大和魂!と新聞屋が云う。大和魂!と掏摸(すり)が云う。
大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」
東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている。
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた。
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている。
誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」


 時代が違うのは承知の上。けれども言っている事の本質は同じであると俺は思っている。