みかんせいじんアワー/捏造問題の奥底にあるもの

その一
その二
最近、「ニコニコ動画http://www.nicovideo.jp)」(現在DDOS攻撃でサーバ停止中)を見ている事が多い。
このニコニコ動画、要はYOUTUBEの動画を引っ張ってきて、それに掲示板のようにコメントを入れる事ができ、更にそれが動画閲覧中に動画にかぶるように流れる。
時折鬱陶しいものもあるけれど、それはオプションで自在にカット出来るし、場合によってはTV番組で良く見られるような、観客席の笑い声のように動画自体を盛り上げる演出として効果があることもある。


 で、そこでかつてフジテレビで深夜(後に早朝)やっていた「ウゴウゴルーガ」の名物コーナー「みかんせいじんアワー」「あにき」を集めたものを発見し、最初懐かしさから見てみたのだが。
…今から考えると良く、朝からこんなのやってたし、こんなの見て学校行く気になってたな。
続けざまに見ているとこう、脳がやられるのを実感する。いや、決して悪口ではなく。


 昨今、メディアの捏造が巷を騒がせており、それに対してメディア側は「演出」という寒々しい言葉で答えている。
それらとネットの隆盛との挾間で、「メディア不要論」という過激な発言も飛び出しているのだが、某あるあると同じCX系列はもともと、深夜帯にかなり実験的な番組を作って放映し、好評を博していた。
今も「ダイバスター」なるかなりキてる番組をCXは作成しているが、こういうのを見ると、やっぱりTVも悪くないんじゃないかな、と俺は思うのだ。
問題は作り手の意識−主に傲慢さと視聴率絶対主義という神話−と受け手のメディアリテラシーなのだろう。
広告を資金として番組を制作する以上、やはりスポンサーの意向には抗いがたいのは当然なのだが、それがやはり行きすぎる事で視聴率絶対主義を生み、視聴率の為に「ちょっとくらいの捏造は演出」等という戯れ言がまかり通るようになる。
そして、受け手は「TVで言ってたから真実なのだ」と疑う事をせず、思考停止したまま、それらを受け入れる。
話半分で受け止めるならまだしも、どこか病的な、絶対視に近い受け止め方をする人も少なからず居て、その人たちの支えによってメディアは自らの力を過信し、驕る事になっているのじゃないか。


 メディアだろうがなんだろうが、慢心し驕る事から腐敗は始まる。
「驕れるものは久しからず、只、春の夜の夢のごとし」
もう800年も前に言われた事が、今もなお当然の事実としてあり続けている。


 まあみかんせいじん見た後で語るような事じゃねえんだけどな。


追記:なお俺は「あにきvs宇宙人」の連作がツボ