倫理観と宗教

 個人の倫理観というものは基本的に、宗教の影響がある。と言う話は良く耳にする。
だが、無宗派の人間にもそれは当てはまるのだろうか。


 普通は、それぞれの属する共同体−例えば国家、例えば民族、など−の信奉する宗教の定義する倫理観に基づいて、個人は倫理観を持つものだ。その信仰心が篤い程に、倫理観も比例して高くなる筈である。
例えば、ヒンズー教徒は牛肉を食さない。牛は聖なる動物であって、その肉を食べるという事は彼らの宗教的倫理に反するからだ。
そうして、自分たちの信仰心の篤さを自らの行動で示し、言うならば神への忠誠を誓う。


 では、無宗派であったらどうだろう。
もし、無宗派であったとしても、その個人が属する共同体でメジャーな宗教があれば、少なからず影響は受けると思う。
本人が無宗派でも、躾る親や教師が何らかの宗教の影響を受けてれば、ベースとしてはやはり、その何らかの宗教の倫理観が存在する事になる。
結果として、意図せざる所から既に、宗教的な影響が染みついている事になるだろう。


 何故、俺がこんな事を考えたか、というと、現代の日本でのモラルの崩壊は、少なからず宗教的なものに起因するんじゃないか、と思ったからなのだ。
現代、日本ではコアとなる宗教は無いといって過言ではない。
確かに、仏教や神道は古来より日本に根付いた宗教ではあったが、嘗てほどに信心深いものも多くはない。年齢が若くなれば成る程、その傾向は顕著になるだろう。
一応、キリスト教徒であったり、或いは新しい宗教に帰依している人も少なくは無いだろうが、国家の屋台骨、という様な物ではない。


 欧米諸国では殆どの人がキリスト教徒であるし、イスラム圏内は文字通りイスラム、韓国では道教、とそれぞれ多くの国民が進行する宗教がある。
所が、日本では先述したとおりに、多く広まってはいるものの、信心深いかと言えばそうではない。
そして、また先述した事だが、信仰心の篤さを示すのは神への忠誠であるから逆に、信心深くないものは神への忠誠心も低く、結果として倫理観も低くなり易いと思う。
今の日本でのモラルの崩壊はこのあたりがベースになってるんじゃないだろうか。


 ここで区別しておかなければならんのは、法と倫理の違いだ。
倫理観というものは自発的=能動的、積極的なものだと思う。
禁を破ったからといって、神から罰が下る訳では無い。(但し、罰が当たるとか地獄に堕ちるとか言っているのも多い事も書いておく)
何故、罰が下る訳でも無いのに教えを守るかといえば、それは一重に忠誠を誓うからである。
更に踏み込んで言えば、罰を受けない為、というよりは神の御許に赴く為とか、要するにご褒美を貰う為なんじゃないだろうか。


 それに対して法は、社会で適用され、否応なく押しつけられるものである。
そして、法を守らなければ罰が下る。罰されるのもいやだから法を守る。言わば受動的、非積極的なものだ。
法による抑止力、という言葉がそれを物語っている。だって、それは裏返せば法が無けりゃ(悪い事)する、って事だから。


 日本に於いて、崩壊したモラルを再構築させる為には、大勢の人々の心の拠り所となる宗教がどうしても必要になってくるんじゃないのだろうか。
しかし、現時点ではそんな求心力のある宗教も存在せず、精々個人レベルで新旧問わず、何処かの宗教の門徒となる程度でしか無いだろう。
今は、新興宗教の台頭が目覚ましい時ではある。もし、このまま日本の国民が、それぞれ好き勝手に様々な宗教に帰依し、という事になると人々の規範とする倫理が、極めて小さな集団ごとに違うものとなるんじゃないだろうか。
例えば、A教団の多い県では「男女は手すら繋いではならない」という潔癖主義的になり、別の県ではB教団という、真言立川流みたいな変わった価値観が人の心を占め、結果として同じ日本でも180度違った倫理観を抱くようになるのではないだろうか。
まあ、これは極論ではあるけれどね。


 そして、極論序でに言えば、喪失されつつある倫理観をどうしても再構築させたいのだったら、国教となるべきものを作り上げないとならないんじゃないだろうか。
でもそれは現実に、「政教分離」を建前としている以上、また思想信条の自由を掲げている以上難しい。
だとすると、俺達は倫理観が滅びて行くのを唯、見守るしか無いのだろうか。


 と、言う事を考えてたら急に眠気が酷くなったので寝る。オヤスミ。
うわー、すげえ消化不良。でももう頭廻らないし。各自色々考えてみて呉れ給え。
つうか、俺何を契機にこんな事考え始めたんだっけ?