如何に血液型性格判断があてにならないか

♪泣きたい時は コートで泣けと
 あの人は あの人は 教えてくれた


 と、「エースをねらえ」の主題歌で歌っている通り、自分のグレーのロングコートにくるまって泣いてたら、コートはコートでも「テニスコート」の事だと知り愕然としているwacremaです。
何で泣いてるかって? 虫歯で歯が痛えんだよ。
あ、このコートの話はネタじゃねえからな。素よ。俺はてっきり「泣きたいのならこのコートに隠れて泣け!」とコーチが言うてるのかと思っておったわ。


 しょうもない前置きはさておいて、弟の事故の処理などで忙しくなかなか更新が出来ない状況ではあるのだけど、まあそれでもネタは色々ある訳で。
中でもこの数日で一番面白かったのは、「弟の血液型が実は違っていた」事だろう。


 ウチの家族はABかBしか居ないと俺も思っていて、母親と弟、共にBらしくズボラで片付けとか苦手。
マイペースを守り、それは言い換えれば我が強く、常にその個性というかアクの強さを滲ませている。
また、あまり惑うと言う事もなく、どちらかと言えば即決型で、俺のように優柔不断な一面はあまり見せない。
何よりも社交的で、他人に対しておおらかな一面を持つ。
恐らく、誰が見てもB型、と答えるだろう。


 所が、手術の前の血液検査の結果、弟は実はA型であると判明。
検査結果に戸惑う弟。混乱の果てに、「俺、誰の子なんだろう」「俺は、誰だ」などと俺に漏らす始末。
ABとBなんだからAが生まれても何ら不思議では無いし、また、血液型がどうだろうとお前はお前でしか無いだろう、と俺は答えるものの、彼はアイデンティティ崩壊の危機に直面す。
まあ、一日寝たら落ち着いたんだがね。我が弟ながら、単純だ。


 この事で分かったよ。
如何に、「血液型占い」だとか、「血液型で見る性格判断」とかが当てにならんか。
元々、俺はあまりそう言うのを過信はしておらず、単に統計の一部としてしか見ていなかったし、人間の性格を大きく形作るのは環境そのものに他ならないと思ってはいた。
だが、こうも、見事に裏切られると言う事は俺も経験が無く−寧ろ頻繁にあってはならんような事ですらあるのだが−、そしてひょっとしたらl、血液型性格判断などと言うものは、後付けの暗示のようなものですらあるのかも知れないと思った。


 つまり、「B型ってこういう人」という事が書いてあったりすると、それを読んだ時に「自分はこうなのだ」という暗示を自らでかけてしまい、その暗示に則った行動を取るようになったりするのではないか、と言う事だ。
だから、結果としてはその性格判断が適合しているように見えるのだけれども、それは順序が逆で、書いてある通りに無意識に振る舞っているから適合してるように見えるに過ぎない。


 また、良く良く考えてみれば、ああ言う類の性格判断等というものは、往々にして誰にでも当てはまるような事柄ばかりで構成されていて、そして同時に半分くらいは当てはまらないような事が書いてある訳で。
下手な鉄砲数打ちゃ当たると言うけれども、O型だろうともB型の人向けに書いてある事が適合するのもあるだろう。
そう言うのを当たる当たらん、などと言って喜んでいるとなると、何だかね。


 ま、人間は、特に俺達日本人はカテゴライズされる事を実は好むものだから、こうした類の簡単に類型化出来る要素に頼ってしまうのかも知れないね。
自分自身で類型化していくのは骨が折れる仕事だし、それに客観的な視点を必要とする。また、他人を類型化する際にも、自身の視点に対して自信を持たなくてはならない。
だからこそ、血液型という大きなカテゴリーに当てはめて、自分はこう、あの人はこう、と決めつけるのかも知れない。
でも、その事は何も根拠の無いもので、言い換えれば砂漠の逃げ水をオアシスだと思って有り難がって追っているような事に過ぎない。
個人で、気まぐれにやるならどうでも良いレベルの話だが、中には企業などの人物選考などにも堂々と取り入れられていると言うから恐れ入る。


 俺はAB型であるが故に、そう言った占いや性格判断に書いてある事がばらばらなので、特にそう言った類のものを信じ込むような事は無かったけれども、血液型信仰のようなものを持っている人は、ちょっと視点を変えてみると良いよ。
無自覚な信仰てのは、醒める迄に時間を要すものでもあるけどな。
まして、企業とかでそう言う差別−敢えて差別と書こう−をしてるような所があるのなら、即刻やめるべきだ。
理由は莫迦らしい、下らないと言う一言以外、無い。


追記 何故弟の血液型が二十数年も違ったまま、当然のように思われてきたかは誰もが首をかしげる
おかしいよな、普通はあり得ない事だよな…。