山奥の通信施設点検


 会社から来た仕事は「山にある通信施設点検補助」と言う仕事だった。
山、と言ってもここは横浜。あるのは精々小山程度で、恐らくその頂きにある携帯の基地局を点検するのだろう。
まあリハビリ程度には丁度良いな。そんなことを思いながら後日、派遣先の会社に向かった。


 で、数時間後。
俺は丹沢奥の山頂にいたのです。それも小山などではなく、ピュアな山の頂きに。


時間を少し戻して記述しよう。
某大手電機の子会社に仲間と赴き、着替えを済ませて業務内容を確認すると、今日は水力発電施設にある無線機器のチェックをするらしい。
幾つか予定地を回るのだが、一番遠くて厄介な所がその、丹沢奥の山頂近くにある発電関連施設で。


朝7時半に会社を出発し、高速を使って10時前に現地到着。春先にも関わらず真冬のような寒さで、寒さに澄んだ空に富士山も明瞭な輪郭を見せている。
丹沢湖より更に上流にある玄倉発電所という所に車を止める。眼下にはエメラルドグリーンに輝く美しい清流が見える。
なんでも、以前この近くで水難事故があったらしい。言われてみればその光景を俺もTVで見た覚えがある。水量が少なければ確かにキャンプなどをするには良いところだろう。清らかに澄んだ水。さほど広くない川幅。
ただ、死者に鞭打つのは趣味ではないが、水際で陣を張るのは将に背水の陣。まして川中の砂州など、俺ならばそんな所は怖くて寝る事は出来ない。
そしてあの事故に於いてと限定すれば、放水サイレンや警官、市職員の警告を無視して居続けた事が悲劇を生んだ事も忘れてはなるまい。


 車を降り、各自10キロ近い装備を背負い、小さな集落を抜けて山に入る。
道など当然ある訳もなく、精々、獣道が関の山。
体がなまっているのもあって、最初の数分で早くも疲れを感じるが、泣き言を言う訳には行かない。
幸いだったのは疲れを感じているのが実は全員で、疲れを押し殺しての強行軍ではなく、休み休みの登山だった事。
ただそれでも、荷を背負い、時に滑落しそうな所を歩んだり、横たわる木を登ったりと言うのは体に堪える。
もうひとつ幸いだったのは、連日の快晴だった事。
前日、或いは当日に雨や雪でも降っていたなら、俺はこうして居られなかったかも知れない。決して大袈裟な話ではなく、現実の高い可能性として。
しゃべると体力を使うので極力しゃべらないようにはしていたが、黙々と行き続けるのも逆に疲れを誘うような気がするので、同行のスタッフ、そして社員と時に軽口を叩きながら、一歩一歩を踏みしめる。
−そういえば、登山て皆杖持ってるよな。
そう思い立っておもむろに途中で杖に良さそうな棒を拾い、足下を軽く突きながら、そして言わば第三の足として使う。
足に掛かる負担は確かに軽減された上に、落ち葉が堆積して落とし穴のようになっている所もすぐわかるので危険察知にも優れている。なるほど、こういう事で登山に持って行っているのね。


 勾配が急なので山を垂直に登るのではなく、稜線に従って蛇行するように進むこと2時間以上。鬱蒼と木々が茂ったところに突然、視界の開けた所が現れた。地図みると多分このへん>>map:x139.0990y35.4378
あからさまに場違いなコンクリート製の小さな建物が目に入る。目的地の施設であった。
こんなとこにこんなもの、どうやって作ったんだ?
背後に回ると、更に上流にあるところから水を引いてきて貯めてある池がある。
透明度の非常に高い池で、エメラルド色の水底に魚影も見える。それも小魚ではなく、30センチ近い魚。
恐らく虹鱒の類だとは思うけれど、ウグイとかイワナとかヤマメだったらどうしよう、釣ってみたいなどと仕事を忘れかける。
荷を下ろし、本来の仕事である無線機器試験−つまり緊急時などで使用する無線の動作チェックや部品交換など−を行い、そのままそこで飯を食う。
快晴のもと、富士山を眺めながら食う飯は仕事であると言う事を忘れさせ、雑談にも花が咲く。
中で印章に残ったのは、こんな山奥にある施設にも泥棒が入り、おかげで施錠をきちんとしておかなければならないらしい。ここではないが、別の所でごっそりと機器を盗まれてしまった事もあるという。地図に明記されている所ではないし、登るにも盗むにも一苦労ある所で盗難を働くメリットは何なのだろう。
飯を食い終わってそのまま少し体を休め、また富士山を撮ったりした後はまた、元の道を降りる。
昇りよりは楽ではあるけれど、膝に負担も掛かる。降りた頃にはすっかり膝が笑っていた。


 その後、発電所内の機器もチェック。
普段なら入ることは出来ない所に入るというのは好奇心を刺激する。
昭和30年代に建てられた建物は独特の匂いがし、あまり人が立ち入っていない事を表す。
発電用のタービンなどを横目に、一通りチェックをし、もう少し色々と見てみたいな、と名残を感じつつ次のポイント、三保ダムへ。


 何故か分からないが俺は昔からダムに憧れを感じている。マニアと言う程では無いのだが、それでもプライベートでダムを通ったりする時は−大体そんなこと自体希有なのだが−いつも、ある種の憧憬を以て眺めたり、車を降りたりする。
そのダムの内部へとこれから突入出来るのだ。
駐在している管理者達に挨拶をし、向かうは管制室。
そこには、壁一面を使った大きなモニターに逐次、映像やデータが表示されていて、机に向かう人たちはそれぞれ、PCでエクセルに何か入れていたりしていた。なんだか妙に格好良い。
また直径30センチ以上もある、非常に大きな懐中電灯−懐に入れる事が出来ないのでこの表記は多分間違いなのだろうが−が沢山置いてあった。非常時にはこれを担いで何かする事を考えると、それだけでも大変そうだ。
一通り仕事をし、また名残を感じながら車に乗り込み、漸く帰途につく頃には既に、山間を夕日が染め始めていた。


 疲れからか相棒は後部座席で船を漕いでいる。
運転する社員から明日の仕事の事などを聞いていると、どうやら山登りではないらしい。
助かった。ダムは好きだが登山は嫌いだ。
冗談交じりに、「登山を趣味にするのはやめておこうと思っていました」と語ると、父親ほど年の離れた社員は全くだねと苦笑いをし、仕事だってホントは遠慮したいよ。今日は快晴だったけど、雨や雪だったら冗談抜きに死にそうになる事もあるし、イノシシや熊だってあそこは出るんだよ、と何か思い出したかのような口ぶりで語った。
今日熊と遭ってたらどうしただろう。
多分、ダメで元々、開口一番「ごめんなさい」って言っただろうな。